脳科学者は政治の専門家ではないし、ビヨンセは食事法の専門家ではない。【「語る資格」のある情報源】

議論
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 今回のテーマは「『語る資格』のある情報源」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言を一部改変している。

ルール14:的確な情報源を探すー誰に頼るか、どこに頼るか

 きちんとした意見を述べるには、的確な情報源を厳選しなければならない。ホンダの各車種の利点について議論したければホンダのメカニックが適任だし、妊娠や出産については助産師や医師、学校の現状については教師が専門家と言える。彼らはそれぞれに適切な経験と知識を備えているから、語る資格があるのだ。世界的な気候変動について最高の情報を得たければ、政治家ではなく気候学者に問いかけよう。

 情報源としての資格の有無がそれほど明白でない場合は、情報源について説明しなければならない。オーブリー・デ・グレイ博士によれば、人間は1000年生きられるという。では、そんな話を信じろと言うオーブリー・デ・グレイ博士とは、いったいどんな人物だ?その答えはこうだ。デ・グレイ博士は老年学者で、老化の原因についての詳細な理論を築き、それらの原因を一つひとつ潰していけば老化は克服できると主張し、『ミトコンドリアのフリーラジカル老化理論』をはじめ、多数の著書があり、二〇〇〇年にはケンブリッジ大学の生物学博士号を取得した。こういう人物が、人間は1000年生きられるというならばーありそうにない話に思えるもののーでたらめや素人の意見ではない。真剣に耳を傾けるべきだろう。

 情報源の資格について説明するとき、論証についてもっと直接的な証拠を付け加えることもできる。

 的確な情報源は、必ずしも特定の分野の「権威」とされるような人物である必要はない。それどころか、「権威」が的確な情報源とは言えない場合さえある。例えば大学について知りたいなら、事務室や広報部ではなく学生たちこそが最も確実な情報源と言える。なぜなら、大学での生活がどんなものかは学生たちが一番よく知っているからだ。

 ある特定の分野の権威だからといって、どんなテーマについてもよく知った上で意見を述べているとは限らないことにも注意しよう。

 ビヨンセはビーガンだ。したがって、完全菜食は最高の食事法である。

 ビヨンセはすばらしいエンターテイナーだが、食生活の専門家ではない(そもそも、ビヨンセがビーガンかどうかは全く明確ではない)。同じように、「ドクター」という肩書を持っていても、それは「博士号を持っている」あるいは「何らかの専門の医師である」ということであって、全ての問題について意見を主張する資格があるわけではない。

 自分よりは知識が深いものの、様々な点で制約があるような情報源に頼らざるを得ない場合がある。例えば、戦場や政治裁判、ビジネスや行政の世界の内側などで何が起きているか、私たちは断片的にしか知ることが出来ないし、しかもその情報はジャーナリストや国際人権組織、監視組織などを通じてしか得られない。完璧でない根拠に頼らなければならないときには、その事実を認めておこう。しっかりした根拠のない情報であってもないよりましかどうかは、読者や聞き手が決めることだ。

 本物の情報筋は、きちんとした根拠なしに結論を主張することはまずない。良い情報筋は少なくとも複数の根拠や証拠―事実や類推、別種の論証などーを使って自分の結論を説明し弁護する。権威者だけに頼った特定の主張を受け入れなければならない部分はあるかもしれないが(例えば、一定の経験がある者の言葉を、私たちは受け入れなければならない)、それでも論証を提示するための最良の情報源だけでなく、彼ら自身の結論を支えている判断をも得ることが見込める。そうした論証を探し、批判的な見地から確かめるのだ。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p66~p70)

 前回の記事でも述べたが、何かを論ずる際には、引用する情報を選りすぐらなければならない。その上で、「語る資格」について考慮することは不可欠である。引用内ではその例として、ホンダの各車種の利点についてはホンダのメカニックに、妊娠や出産については助産師や医師、学校については教師に、気候変動については気候学者に、それぞれ「語る資格」があるとしている。なぜなら、彼らは「適切な経験と知識を備えている」「専門家」だからだ。

 しかし、SNSなどインターネット上には素性が分からない自称専門家があふれかえり、テレビやインターネット上の番組では専門外のことについて雄弁に語る専門家がたくさんいる。果たして彼らには語る資格があるのだろうか?

 勿論、誰にでも「語る権利」はある。語る権利は万人に保障されていなければならない。「語る資格」とは、「その問題・事柄について専門家として語る資格」のことである。上記の例を再度用いるなら、妊娠や出産についてホンダのメカニックは語る資格はない。同じく、助産師や医師はホンダの各車種の利点について語る資格はない。

 権利と資格とは別物である。例えば、医者という「資格」はなくとも、医療について語る「権利」は誰もが有している。ただ、耳を傾けるべきは「資格」保有者、すなわち専門家の声だ。ここで言う、医者の意見だ。

 また、「情報源としての資格の有無がそれほど明白でない場合は、情報源について説明しなければならない」。こうすることで、他の議論参加者に対して、情報源がその問題について「語る資格」を有しているのか否かについて吟味することを求めることができる(「この情報や情報源を用いることについて懸念がある方はいませんか?」と直接的に問うてみるのも良いだろう)。

 この場合、具体的にどのように情報源を説明するのか?このことについては、上記の引用内の「オーブリー・デ・グレイ博士」の例を見てみると分かりやすいだろう。この例のように、情報源について説明する際には、偏見や先入観を含めないようにして、感情的な言葉や誘導的な言葉・表現を用いないようにして、公平で中立的な説明になるようにしなければならない。

 そして、「ある特定の分野の権威だからといって、どんなテーマについてもよく知った上で意見を述べているとは限らないことにも注意しよう」。この注意喚起は議論においても、日常生活においても非常に意義深いものである。

 先述の通り、世の中には「専門外のことについて雄弁に語る専門家がたくさんいる」。脳科学者が政治についてよく知っているとは限らない。ある特定の分野における権威は、その分野において通用するものであって、全ての分野・領域において通用するものではないのである。つまり、脳科学者は脳科学における権威は有しているが、脳科学以外の領域における権威は有していないのである。

 勿論、誰もが「語る権利」は持っている。しかし、脳科学者が政治について語っていても、それは「門外漢・素人が語っている」に過ぎない。言わずもがな、門外漢・素人とその意見が権威を有しているわけがない。そのような権威を欠いた意見は論の証拠としては不適であろう。なぜなら、証拠としての説得力が極めて弱いからである。

 引用内のビヨンセの例が端的に示しているように、特定の分野の権威者の為すことが絶対的に正しいわけではない。ヴィーガニズム(完全菜食主義)が良いものであるということを主張したいのであれば、その利点を提示するべきだ。その利点とは、おそらく健康面や倫理面や環境面のものだろう。しかし、ビヨンセが実践しているということ自体はヴィーガニズムの利点ではない。

 勿論、ビヨンセは素晴らしいアーティストだ。アーティスト界では彼女は権威者なのだろう。しかし食事や食事法における権威者ではない。「ビヨンセがやっているからヴィーガニズムは良い食事法だ」というのは全く的外れな主張である。それは論ではない。

 この関連で付言しておきたいことがある。最近SNSにおける声(ツイートなど)を紹介する番組や記事はとても多い。場面や場合にもよるのだが、SNSにおける声を「証拠として」挙げるのは基本的に間違っている。ましてや、素性の分からない匿名の投稿を「証拠として」用いるのは大いに間違っている。

 なぜなら、そのような投稿は「権威」を有しているはずがないからである。そもそも、誰のものか分からないような意見を証拠として提示することはできない。匿名や「なりすまし」がありふれるSNS、インターネット上の言葉を信用することはできない。ましてや、それを証拠として用いて何かを論ずるなどもってのほかである。

 また、特定の分野の権威者の投稿(ツイート)であっても、SNSにおいて発された主張を証拠にすることは好ましくない。その権威者の意見を自分の論の証拠として提示したいのであれば、彼/彼女の公式的な発言・意見表明(書籍や論文、公式サイト、出演番組での発言など)を提示するべきだ。

 「自分よりは知識が深いものの、様々な点で制約があるような情報源に頼らざるを得ない場合がある」。多々ある。いや、そのような場合が大半である。

 我々一人一人はほとんど何も知らない。一人では何も知ることができない。なので、異なる属性の人、異なる土地にいる人、異なる生業を営んでいる人、異なる立場にいる人などが各々の限られた情報をインターネットやマスメディアや学校や職場や家庭……などに持ち寄って、それらの情報にアクセスすることによって我々一人一人は世界を知ろうとする。

 しかし、我々一人一人が得る限られた情報の総和は完璧には到底及ばない。というか、完璧など存在しない。存在するとしても、完璧は人間のためのものではない。我々人間は必ず「完璧でない根拠に頼らなければならない」。そして、その事実を認めなければならない。その上で情報源などの根拠を聞き手に提示しよう。「しっかりした根拠のない情報であってもないよりましかどうかは、(主張者が決めることではなく)読者や聞き手が決めることだ」。

 「本物の情報筋は、……」から始まる段落については、丸暗記していただきたい。特に、「論証を提示するための最良の情報源だけでなく、彼ら自身の結論を支えている判断をも得ることが見込める。そうした論証を探し、批判的な見地から確かめるのだ」という点は大事である。

 少し分かりにくいので言葉・表現を加えてみると、「情報源が示している結論の説得性・妥当性・信頼性だけでなく、その結論を支えている根拠や前提や推論の説得性・妥当性・信頼性をも批判的な見地から検討する」ということである。他者の意見や情報源について吟味する際には、それらの結論だけでなく、その結論を支えている根拠や前提や推論についても検討する必要がある。結論だけを見て何かを信じたり否定したりしてはならない。

 この段落は議論における最重要の心掛け・必要を示しているので、最後に再び掲載しておく。

 本物の情報筋は、きちんとした根拠なしに結論を主張することはまずない。良い情報筋は少なくとも複数の根拠や証拠―事実や類推、別種の論証などーを使って自分の結論を説明し弁護する。権威者だけに頼った特定の主張を受け入れなければならない部分はあるかもしれないが(例えば、一定の経験がある者の言葉を、私たちは受け入れなければならない)、それでも論証を提示するための最良の情報源だけでなく、彼ら自身の結論を支えている判断をも得ることが見込める。そうした論証を探し、批判的な見地から確かめるのだ。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p69~p70)

 今回はここまでだ。今回覚えてほしいのは「情報源としての適性や妥当性について考える際には、その情報源が『(その問題について専門家として)語る資格』があるのか否かについて吟味する必要がある。ある分野の権威者はその分野ついて『語る資格』を持っているだけで、他の分野についての『語る資格』を持っているわけではない。情報源としての適性や妥当性が不明であるなら、その情報源についての公平中立な説明を聞き手に提示しよう。その情報源が適格か否か、的確か否か、妥当か否かは聞き手が決めることだ」ということである。

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