この世で一番美味しい食べ物は決められない

詭弁・誤謬
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 この記事を読む前に、前回の歪んだ負けず嫌いな子は敗北を知らない | ギロンバ-議論場- (gironba.com)という記事を読んで頂きたい。

 今回のテーマは「この世で一番美味しい食べ物は決められない」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

やむをえぬ押し

 「ひたすら言い募る」のがやむを得ない場合もある。個人の好き嫌いや、感情について発言する場合である。たとえばウナギが嫌いだという人は、なぜ嫌いなのか、どうしてブタは食うのにウナギはダメなのかと問い詰められても、好きな人に分かるように説明するのは難しい。

 私が参ったのは、東大病院で歯を抜いてもらったときのことである。麻酔が効かないうちに歯を動かし始めたので、開いたままの口で「痛いです」と言ったところ、体格の良い若い先生に、「痛くありません!」と撃退されてしまった。こんなときは、何と言われようと「ひたすら言い募る」より他に手はなさそうだったが、歯の根がグラグラし始めた瞬間、麻酔が効いてきてスッと痛みが消えたので、本当にホッとした。

 これらの場合のように、自分が感じていることを率直に表明しているときには、それを指すのに「言い募る」のような悪い響きの言葉をあてるのは不適当であろう。問題はその「感じ」が、他の人々の感じや利害と衝突したときに、どのような態度をとるかということである。たとえば、いくらウナギが嫌いだからといって、仲間と連れ立って晩飯を食おうというときに、他の仲間にまでいつもウナギ以外のものを押し付けることは、まあ嫌われる元であろう。

 寿司屋に行くか、ウナギ屋に行くかぐらいのことであれば、多数決で決めるのが穏当である。「あいつはウナギが嫌いなのだから……」とか、「三度も続けて寿司を付き合わされているから……」など、なかなか数字では表しにくい要件を、各人の裁量で判断して、多数決に従う。民主主義の原理である。たかが晩飯のことであるから、贈収賄や権威による威嚇などはあまり発生しないと思うが、「やっぱりウナギはよそうや」などと粘る者がいると、話がややこしくなる。

 好き嫌いの強い人が最初に「私は○○は嫌」と宣言してしまうと、たいてい言う通り(○○以外のもの)になるらしい。理由なし、妥協なしであるから、本人がそのつもりでなくても、これは小児型の強弁と変わりない。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p28~p30

 言わずもがな、好きなもの・嫌いなものは人それぞれである。私はドクターペッパーを好んで飲むのだが、ドクターペッパーに対して「薬みたいな味がするから嫌い」と感じる者もいる。そのような者にドクターペッパーを飲むように勧めても拒否されるだけだろう。飲むように強制したとしたら私は嫌われてしまうだろう。

 というように、自分の好みについて妥協することは難しい。好きな食べ物はたくさん食べたいし、嫌いなものは口に入れたくもないのだ。嫌いなものを食べるように強いられたら、誰でも反発するだろう。その反発には「嫌いだから食べたくない」という因果以外の論理は存在しないのである。

 痛みに関しても同じことが言える。基本的に、殴られそうになったらそれを避けようとするし好んで怪我しようとする者もいないだろう。痛みを回避するのはなぜか?そのように問われたところで、「痛いのは嫌だから」と答えることしかできないだろう。

 つまり、「嫌なものは嫌」なのだ。「嫌なものは嫌」というのは論理的ではない。ただ、論理的ではないことをもって、それを誤謬や詭弁や強弁であると認定するわけにはいかない。嫌なものがなぜ嫌なのかは感情・感覚的な問題であるので、もはや論理による説明が難しい。

 以上のことが何を意味するのかというと、人の好み(人によって好き嫌いがあるもの)を含め感情・感覚的なものについて議論することはほとんど不可能だということである。

 たとえば、「この世で一番美味しい食べ物は何か?」という議題で議論することは不可能である。なぜなら、妥結できるわけがないからである。「リンゴが一番美味い」「ラーメンが最も美味しいに決まっている」「最も美味しいのは母親が作るみそ汁だ!」「フィッシュアンドチップスが一番デリシャスだ!」というような意見の中から「この世で一番美味しい食べ物」を決めることなどできようか?おそらく、議論参加者全員が自分の意見を譲ることはないだろう。

 みなさんも考えてみてほしい。自分の好きな食べ物が世界で最も美味しいと主張したいだろう。自分の好きな食べ物が他人の好きな食べ物よりも美味しくないという結論が出たら腹立たしいだろう。おそらく議論参加者全員がそのような想い・意気込みで議論に臨むはずだ。そして、そんな議論は議論として成り立たないのだ。

 「この世で一番美味しい食べ物は何か?」という議題・話題は別に目新しいものではないだろう。おそらく古今東西で話し合われてきたはずだ。しかし未だに結論は出ていない。いや、辿り着き得る結論が一つだけある。「人によって美味しいと感じる食べ物は違う」、つまり「人による」ということだ。

 基本的に、好みなどの「人によって回答が異なる」ような議題において妥協はできないのである。これまで「好きな食べ物」を例として挙げてきたが、妥結不可能な議題は他にもある。人は信仰すべきか否か?どの宗教が一番優れているか?どのスポーツが一番楽しいか?持つべき趣味とは何か?休日はどのように過ごすべきか?などなど、これらは全て「人によって回答が異なる」ことが容易に予想できる議題・問いである。

 勿論、上記以外にも妥結不可能な議題・問いはたくさんある。もしかしたら、一般的に議論の対象とされている政治や社会問題といった議題であっても、突き詰めれば「人によって回答が異なる」ような議題であると言えるだろう。というか「人によって回答が異なる」からこそ、政治や社会問題に関する議論において妥結することは難しいのだろう。

 しかしそれでも、「この世で一番美味しい食べ物は何か?」という議論よりかは妥結が見込めるはずだ。たしかに政治や社会問題に関する議論においては、左派vs.右派というような派閥対立・イデオロギー対立が存在する。派閥やイデオロギーもある種の「好み」であり「趣味」であるのかもしれない。

 ただ、政治においても社会問題においても派閥対立とイデオロギー対立しか見込めないわけではない。まだまだ問題は山ほど残っているにしても、一応は「国民の意見を意思決定に反映する必要性」が広く認識されていて、なおかつ「国民の意見をそれなりに収斂させられる政党システム」があるからこそ、選挙制度など一定の政治構造は確立しているのだ。「国は困っている人を救わなければならない」「その国の任務を維持するために国民は一定額を拠出しなければならない(=税制)」という一定の統一見解があるからこそ社会保障は存続している。

 というように、政治や社会の領域においては、好みの対立や趣味の対立ばかりではないからこそ、ひとまずの統一見解が得られている。このことをもって政治や社会問題といった領域で議論は存在できているのだ。

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