スーパーマーケットでの強弁【論理といえど感情が出発点】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「スーパーマーケットでの強弁」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

買物論争

 スーパーマーケットで子供をつれて買物をしている若いお母さんの話であるが、近頃は、子供が欲しがるものを、勘定を済ませる前に、子供の手に握らせてしまうことがよくあるという。それを見て驚いた(多分中年の)お母さんがそのことを新聞に投書するや、賛否両論がわき起こった。

 「そんなことはよくない」という人の根拠は、「びっくりした」「不愉快に感じた」という感情が出発点らしく、あまりはっきりしない。「昔はそんなことはなかった」とか「躾がなっていない」としか言えず、それをそのまま押し付けようとすると強弁術になりかねないところがある。これに対して、「どこが悪いのか」と開き直る方は、なかなか凄味がある。「子供が欲しがるのだから、しょうがない」という投書もあった。

 「どこが悪いのか」。これは強弁術のひとつのテクニックである。大体、論証ないし説得というのは難しいものなので、その手間を相手に押し付けてしまえば、半分勝ったといっても差し支えない。たとえば亭主の浮気が問題になったときに、女房の側でそれを立証しなければならないとすると、これはなかなかの実行力を要する仕事になるであろう。しかし、親戚一同に攻められて、亭主がその無実を証明しなければならないとすると、これもまた非常に難しい。第三者に見えない藪の中で何が起こったか。「何かが起こった」ことの証明も難しいし、「何も起こらなかった」ことの証明もまた、しろと言われても困る場合が多いであろう。

 しかしさっきの件について、「どこが悪いのか」と開き直ったお母さんたちが、強弁術を自覚的に行使しているとは思われない。実に素直に、「悪い」こととは全然思っていなかったので、そういう言葉が出てきたのであろう。ただそうだとすると、「ごく当り前のこと」という感情が出発点になっているわけで、その根拠を言葉で明らかにしてはいないことになる。つまり、論理的に言って、「よくない」と思う人たちに比べて特に有利なわけではない。結局違いは、親の考え方であった。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p23~25

 付言しておくが、この『詭弁論理学』という本の初版は1976年である。それゆえに引用内では「亭主」や「女房」といった表現が用いられている。この点を留意されたい。

 では、本題に入ろう。まず触れておかねばならないのは、“自分の論証・説明責任を相手に転嫁する” という強弁術についてだ。この強弁術について引用内では、「(論証ないし説得の)手間を相手に押し付けてしまえば、半分勝ったといっても差し支えない」と述べられている。これは強弁術の中でも特に代表的なものであり、至る所で頻繁に見受けられるものである。

 スーパーマーケットで未勘定の商品を子供の手に握らせる母親に対して「昔はそんなことはなかった」「躾がなっていない」などと言う者。そのように言ってくる者に対して「どこが悪いのか」と言う母親。本来、双方に互いの感情や意見についての論証・説明責任が生じるはずなのだ。前者も後者も自分の感情や意見について論証・説明しなければならないのだ。そうでないと、互いが己の感情や意見をぶつけ合うことに終始してしまい、問題の改善・解決や妥協案・最適解への到達など見込むべくもなくなるのだ。

 なぜ私はそのように思ったのか?なぜ私はそのような意見を持っているのか?ということを互いに表明し合わなければ、歩み寄りは成就しないし、(その問題・事象が生起した場所の空気感や社会規範や勢力図によっては)話し合いの前から特定の人物が不利な立場に置かれてしまう。一方にだけ説明責任が帰せられることはそうそうないだろう。

 「(自分のしたことの)どこが悪いのか」と相手に問うのもよいが、「(自分のしたことについて)悪いと思っていないのはなぜか?それをごく当り前のことだと思っているのはなぜか?」を自分で説明するという責任を果たさなければならないのだ。そして、相手も「当該行動が悪いと思ったのはなぜか?」「当該行動が常識から外れていると考えるのはなぜか?」を説明するという責任を同じように果たさなければならないのだ。

 その上で、互いの説明に関する不明点を質問し合っていって、相互理解を進めていくべきだ。(対立の大小・内容を問わず)人と対立したときには、対立している当事者同士は全員、自分の意見や感情について相手に説明しなければならない。

 人と人のコミュニケーションにおいては、自分の意見とその意見を持つに至った感情の働きについて互いに説明し合う必要がある。何らかの立場を採るとき、何らかの決定をするとき、人は論理よりも感情に左右される。論理よりも感情の方が人の意思決定に影響を与えるものだ。いや、こう言った方が適切かもしれない。論理よりも感情の方が “先に” 人の意思決定に影響を与える。「感情は論理に先行する」とも言えるかもしれない。とある感情から特定の意見・立場が生起し、その意見・立場を補強するために論理を駆使する。このような感じではないだろうか。結局のところ、人々の間の考えの相違は、人々の間の「感情の相違」に起因する。言わずもがな感情は十人十色である。それゆえに、人と対立したときこそ感情を伝え合うべきなのだ。

 誤謬や詭弁や強弁について我々が頻繁に取り扱っていることからも分かるように、論理が誤ることは往々にしてある。それゆえに、論理の誤りは指摘することができる。しかしながら感情は誤りようがない。というか、何らかの感情を “誤り” などとみなすことはできないし、そんなことはするべきでもない。先程も言ったが、感情は十人十色である。人の性格や感情の持ちように差異があることはおそらく皆が認めるところだろう。そうであるからこそ、異なる考えを持つ者と折り合おうとするときには、論理だけでなく感情をも伝える必要があるのだ。論証するときと同じように、感情的にならずに感情を伝える必要もある。冷静に話そう。冷静に相手の話に耳を傾けよう。

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