大きな主語はショートカットの産物【事実よりも分かりやすさのための「一般化」。その注意点】

議論
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 今回のテーマは「事実よりも分かりやすさのための一般化。その注意点」である。今回から例証による論証について述べていく。まずは引用から見てみよう。

 例証による論証は、一般化を裏付けるための具体的な例を一つ、あるいは複数示す。

 前提が一般化をきちんと裏付けるには、どんな条件が必要だろう?勿論第一の必要条件は、前提として挙げる例が的確であることだ。まずは説得力のある前提を示さなければならない!もし全ての例に裏付けがないとなれば、そもそも話にならない。論証の土台になる前提の内容をきちんと確かめるためには、あるいは良い例を見つけるためには、ある程度の調査が必要だろう。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p36~p38 )

 まず、押さえておきたいのは「一般化とは何か」ということだ。一般化とは、「論理学で、さまざまな事物に共通する性質を抽象し、一つの概念にまとめること」(一般化とは – 「一般化」の意味ならWeblio辞書)だそうだ。

 一般化という作業は、議論においては、いや日常生活においても必須のものである。日々、我々は「男性は~」「女性は~」「日本人は~」「欧米では~」など様々な一般化をほとんど無意識的に行っている。我々はなぜ一般化を行っているのだろうか?それは、一般化をしないと日常生活に支障をきたすからだ。

 我々が生きているこの世界は極めて複雑な構造をしており、ほとんど無限にあるかのように思われるほど膨大な数の情報から成っている。このような世界を生きる上では、単純化という作業を経て世界を簡素化して認識する必要がある。複雑で膨大な情報を取捨選択して、錯綜する情報に一定の認識制限を設けなければ、脳がパンクしてしまう。

 新しい街に引っ越してきて間もない時期には目に見えるもの全てに新鮮さを感じるが、それはいずれ見慣れた景色となり、新鮮さなど感じなくなる。なぜか?それは、我々人間が「慣れる」からだ。この「慣れる」ことは単純化の一形態だ。いつまでも目に見えるもの全てに気を引かれていては、脳のリソースの多くを割かれ続け、脳が疲れてしまう。こういった事態を防止するために我々は慣れるのだ。慣れることは、単純化することは、ショートカット(省力)することである。手間を省くことである。

 我々人類の歴史はショートカットの歴史だと言っても過言ではない。手作業で書物を大量複製する手間をショートカットするために活版印刷を発明したり、ヨーロッパからアジアへの喜望峰航路をショートカットするためにスエズ運河を作ったり、手紙を書く手間・送る手間・運ぶ手間をショートカットするために電信を発明したり……。このような例は枚挙にいとまがない。我々の環境を見回してみてほしい。何らかの手間を省くために発明し発展してきたもの・システムばかりだ。

 つまり何が言いたいのかというと、人間は常にショートカットを志向するということだ。いや、志向するというより、無意識的にショートカット(省力)しようとすると言った方が正確かもしれない。

 ショートカットしようとする、すなわち手間を省こうとすることは我々人間の「癖」であると言えよう。そんな癖の現れ方が「慣れること」であったり「一般化」であったりするのだ。

 一般化もまた、わざわざ、いちいち個人の状態・状況や個別の物事を鑑みながら世界を認識するという手間を省くために、個人の状態・状況や個別の物事など、個人の間や物事の間で多種多様な差異を呈するものを「一緒くた」にすることである。ちなみに「一緒くた」とは「多種多様なものをひとまとめにすること、一括りにすることなどを意味する語」(一緒くた(いっしょくた)の意味や使い方 Weblio辞書)である。

 「日本人は勤勉である」ということはよく言われているが、勤勉ではない日本人も存在する。ここでいう「日本人は勤勉である」とは一般化という作業を経た文言である。一方、勤勉ではない日本人も存在するというのは“事実であるという確率が高い主張”である。(なお、論点がずれるので「勤勉」の定義問題についてはここでは触れない。)

 一般化においては事実が述べられているとは限らないのだ。というか、一般化を経た文言の内容は高確率で事実ではない。そもそも、複雑すぎる現実世界の事実は一概に言葉にすることができないし、その複雑性を縮減する=単純化することなしには脳がキャパシティ・オーバーになってしまうから、我々は一般化しているのだ。

 一般化することのメリットは世界を認識する上でのショートカット(省力)に寄与するということだ。一方、デメリットは、事実を述べているわけではない、それも高確率で事実を述べていないということだ。これらはあくまで一般化すること“自体”のメリット・デメリットだ。

 ここで特に注意しておきたいのは、一般化を用いる際に発揮される我々人間の悪癖だ。その悪癖とは「事実を述べているわけではないという一般化のデメリットをいとも簡単に忘れて、一般化された文言を事実であると思い込んでしまう」ことである。

 「日本人は勤勉である」という一般化された文言は事実であるかもしれないが、そうではないかもしれない。しかも、それを事実または真であると断定できる確率はかなり低い。なぜなら、「日本人全員が勤勉であること。つまり日本人の中に勤勉ではない者は一人としていないこと」を証明しなければならないからだ。

 その証明のためには、日本国籍保有者全員を調査しなければならない。勿論、被調査者の自己申告に頼るアンケートではダメだ。「私は勤勉です」と被調査者本人が回答したところで客観的な信憑性も信頼性も極めて乏しく、それゆえデータとしての妥当性も極めて乏しい。では、日本国籍保有者を一人一人面接調査すればいいのか?そもそもその調査は現実的ではないが、実施するにしても一体誰が面接官なのか?日本人に対する調査なので、公平を期するために日本国籍保有者以外の方に面接官をやってもらわなければならない。その調査の面接官になるための資格とは一体何なのか?一体どこの誰にやってもらおうか?そもそも「勤勉」とはどういった態度を指しているのか?定義しなければならない。では、どのような議論を経て定義するのか?その議論に参加するのは一体どこの誰なのか?打って変わって、「日本人の中には勤勉ではない人が存在しないこと」を証明する方に舵を切ろうか?でも、これは、存在しないことを証明する「悪魔の証明」(この詳細については後日述べる)だ。証明不可能だ。………………突き詰めて考えてみると、こんな感じになる。

 一般化された文言は高確率で事実ではない。かといって、日常生活においても議論においても一般化は我々人間にとって必要不可欠な作業であることには変わりない。我々は物理的に、全ての個人の状態・状況や全ての個別の物事について把握できない。我々は一般化という行為を飼い馴らさなければならない。日常生活では多少なりとも曖昧にルーズに簡単に一般化を用いても良いかもしれない(無論、そうではない場面・場合もあるだろう)が、議論においては一般化をしっかりと飼い慣らさなければならない。ここまできてようやく引用の内容に触れることができる。

 論証には一般化が用いられることが多い。その際にはその「一般化を裏付けるための具体的な例を一つ、あるいは複数示す」必要がある。

 では、一般化を裏付けるという役目を十全に果たすことができる例とはどのようなものなのか?それは「的確で説得力のある」例だ。このような月並みなことを言ったところで、「で、具体的にはどのような例?」と問われるはずだ。当たり前である。逆に、このような月並みな文言で納得してもらっては私も困る。

 ということで、具体的に述べていきたいところだが、今回はここまでだ。それは次回以降の機会に譲ろう。今回覚えておいてほしいのは「一般化は世界を認識する上でのショートカット(省力)に寄与するが、一般化された文言の内容は高確率で事実ではない。このメリット・デメリットを忘れないようにしよう。また、適切な一般化には的確で説得力のある例が必要である」ということだ。

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