反対意見を言おうとする人にレッテルを貼らない/くしゃみは落雷の原因と言えるか?【井戸に毒を入れる/前後即因果の誤謬】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「井戸に毒を入れる/前後即因果の誤謬」である。まずは「井戸に毒を入れる」という誤謬・詭弁について説明する。以下は引用である。

井戸に毒を入れる

 論証を始める前に、誘導的な表現で貶めてしまうやり方。

 「きっと、あなたはこんな迷信に惑わされる少数派の人々の仲間ではないだろうが……」

 もっと巧妙な例では、

 「感受性の鋭い人ならば、こんな風には考えないだろうが……」

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p191)

 「井戸に毒を入れる」という誤謬・詭弁は、持論に対する反対意見をあらかじめ封じ込めるために、「論証を始める前に、(反対意見を言う人を)誘導的な表現で貶めてしまう」ことによって、反対意見を言おうとする人を牽制しようとするものである。言わば、「反対した者は否定的な印象が植え付けられることになる」と脅すことによって、反対意見を言いにくくするという詭弁である。

 英語版Wikipediaにある説明は分かりやすいものであるので、ここで紹介しておこう。“Poisoning the well(=井戸に毒を入れる) is a type of informal fallacy where adverse information about a target is preemptively presented to an audience, with the intention of discrediting or ridiculing something that the target person is about to say”. 和訳してみると、「『井戸に毒を入れる』とは、誤謬の一つであり、標的となる者が言おうとしていることの信用を傷つけたり嘲笑したりする意図で、標的となる者についての不利な情報を聴衆に対してあらかじめ提示することである」。

 この誤謬・詭弁は「人身攻撃」(人身攻撃/無知に訴える論証 | ギロンバ-議論場- (gironba.com))の一形態であるとみなすことができる。「人身攻撃」とは、論証の内容に反論・反証するのではなく、論者自身の人格を貶めることで論証そのものを否定しようとするという誤謬・詭弁である。

 これと同じ要領で、Aさんが発言する前に、Bさんが「Aさんは前科者だということを念頭に置いて彼の話を聞いてください」と言うとき、Bさんは「井戸に毒を入れている」と言えるだろう。この場合、Bさんは、最初からAさんの発言・論証内容を吟味する気がなく、他の議論参加者(聴衆)に対しても、前科者であるAさんの論証はどうせ間違っているし信用が無いのだから、Aさんの発言に真剣に向き合う必要はないということを説いている。当たり前だが、たとえ前科者であっても、そのことは彼の論証の説得性や信頼性に何ら影響しない。論者の人格ではなく、論証の内容を評価しよう。

 ちなみに、上述の「人身攻撃」や「井戸に毒を入れる」という誤謬・詭弁においては、真偽不明の「レッテル貼り」も多く見受けられる。というか、これらの誤謬・詭弁は「レッテル貼り」そのものなのかもしれない。特に、「井戸に毒を入れる」は、「もし反論した場合には、(真偽に関わりなく)(否定的な)レッテルを貼られる危険性がある」ことを反論しようとする者に認識させることによって反論しにくくさせるという一種の “脅し” である。簡単に言うと、「もしあなたが私の意見に反論するのなら、あなたは、みんなから否定的な印象を持たれることになるよ」と脅すことが「井戸に毒を入れる」ことである。

 次に、「前後即因果の誤謬」について説明する。以下は引用である。

前後即因果の誤謬

 複数の出来事の前後関係を観察しただけで、それらに因果関係があるとみなす誤謬。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p191)

 実は、誤謬や詭弁の多くにはラテン語名が付いている。つまり、ラテン語が使用されていた古い時代から誤謬や詭弁は大きな問題だったのだ。「前後即因果の誤謬」も例外ではない。「前後即因果の誤謬」には、“post hoc ergo propter hoc” というラテン語名がある。これを和訳してみると、「そのもののあとに、ゆえに、そのものによって」となる。「AのあとにBが起こった。ゆえに、AによってBが起こった」と考えてしまうのが「前後即因果の誤謬」である。言うまでもなく、前後関係は因果関係とイコールではない。前後関係における前の事象と後の事象がそれぞれ原因と結果に必ずしもなるわけでない。たしかに、前後関係がそのまま因果関係となるような事象も存在するのだが、全ての事象がそうなるわけではない。

 例えば、(以前、どこかで提示した極端な例だが)あなたがくしゃみをした直後にあなたの近くで雷鳴が轟いたとする。くしゃみの後に雷が落ちたということをもって、くしゃみという原因が落雷という結果をもたらしたと言うことができるだろうか。この推論が妥当である可能性はかなり低いだろう。

 (あり得ないとは思うが)もし仮に「あなたがくしゃみをした直後にあなたの近くで雷鳴が轟く」という現象が何度も起こるのであれば、(因果関係とみなせる可能性を秘めた)相関関係が存在するかもしれない。あなたの特殊能力が雷を発生させているのかもしれないし、雷に反応してくしゃみが出てしまうという特異体質をあなたが有しているのかもしれないし、特定の気候・天候が雷とあなたのくしゃみの両方を生起させているのかもしれない。

 ただし、相関関係があるからといって、前に起こった事象が原因で、後に起こった事象が結果であると決めつけることはできない。上記の例のように、一つの事象だけでも複数の相関関係があり得る。くしゃみという原因が雷という結果をもたらしているのかもしれないし、雷という原因がくしゃみという結果をもたらしているのかもしれないし、特定の気候・天候という原因がくしゃみと雷という二つの結果をもたらしているのかもしれない。相関関係は極めて複雑なのだ。

 とはいえ、くしゃみをした直後に雷が落ちることは何度も起こらないだろう。やはり、くしゃみと雷との間に相関関係・因果関係があるとは考えられない。かなり現実味が薄い。つまり、くしゃみをした直後に近くで雷が落ちたとき、両事象は無相関である、すなわち(一回限りの)偶然であると考えた方が自然である。相関関係・因果関係がある可能性は0%というわけではないが、極めて低い。無相関や偶然である可能性の方が格段に高い。

 「前後即因果の誤謬」は、代表的な錯覚である。人間は、「原因と結果(因果関係)」という認識枠組みを用いることで、世界で起こる様々な事象を認識する。しかし、世界は人間の認識枠組みに沿ってできているわけではないので、当然、人間の認識と世界の現実との間に齟齬・乖離が生じてくる。それを是正しなければ、齟齬・乖離は拡大していく一方である。しかし、齟齬・乖離を是正することは難しく、それゆえに「前後即因果の誤謬」は世の中にあふれていて、とても身近な誤謬であるのだ。

 人間はあらゆる事象に相関関係を見出す・見出そうとする傾向があるのだが、全ての事象に相関関係があるわけではない。偶然の事象も山ほどあるのだ。人間は頭の良い推理家である。「原因と結果(因果関係)」という認識枠組みを用いた推理も(科学などの形態をとって)人類の歩みに奏功してきた。そうであるがゆえに、その認識枠組みに頼り過ぎて、何にでも原因と結果が存在すると思い込んでしまい、(実際は)存在しない因果関係すらも過剰に推理しようとする。

 一応言っておくが、「原因と結果(因果関係)」という思考枠組みを否定しているわけではない。相関関係・因果関係を探求するという科学的態度は適切な議論の大前提である。議論において相関関係・因果関係の探求は必要不可欠である。しかしながら、「原因と結果」は全ての事象に存在するわけではなく、それゆえに「原因と結果」という認識枠組みも万能ではない。このことをしっかりと認識しなければ、「前後即因果の誤謬」という錯覚によって、誤った認識、誤った論証、誤った議論が生まれてしまい、それらの誤りもいつまで経っても是正できない。

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