他人の気持ちは悪魔にも分からない

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「他人の気持ちは悪魔にも分からない」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言には多少の変更を加えている。

あてにならない話

うがった見方

 心理学や精神分析学の知識(なのか、あるいはそれらしい言葉)を振り回す人もいる。「爆弾を仕掛けた」というイタズラ電話を受けた病院長が震えあがって、警察に連絡するやら入院患者を避難させるやら、大騒ぎをした。そのことを指して「被害者であることを楽しんでいる」とか、「加害者を極悪人に仕立てようとしている」、果ては「マゾヒズムとサディズムの匂いがする」という評論があったというが、こういうのはせいぜいSFの世界の冗談であってほしいものである。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p74~p75

 病院長の心の内など分からない。病院長は本気で爆弾が仕掛けられていると思って慌てていたのかもしれないし、「被害者であることを楽しんでいる」かもしれないし、「加害者を極悪人に仕立てようとしている」かもしれない。だがそれらは憶測に過ぎない。病院長の真意は病院長自身にしか分からない。

 ここでもう一つの引用を加えよう。

悪魔にも分からない

 うがった見方というものは、嘘とも断定できない場合でも、あまり信用しない方がよい。特に「他人の心理」などは、いつどう揺れ動くか分からないものなので、自信ありげに何かを言う人がいても、眉に唾をつけて聞き流した方が良い。

 欧米の法廷では、証人に「誰がどんなふうに思っていたか」を証言させることはしないそうである。日本の法廷では「当事者甲は当事者乙を憎んでいるに違いない」という証言も行われた例があるということから、その差は「考え方」の違いにもつながっているのかもしれない。日本の戦争犯罪人が裁かれた東京裁判でも、日本の弁護士が証人に「彼は何と思っていたか」という質問をしたら、裁判長に次のようにたしなめられたという(戒能通孝『法廷技術』日本評論社)。

 「他人の気持ちは悪魔にも分からないという諺が西洋にはありますよ。彼は何を言ったか、何をしたかといってお聞きなさい。彼は何を思っていたかと聞いたって無意味です」。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p75

 たしかに、「他人の心理」など分からない。分かるのは自分の心理だけだ(自分の心理すら分からないこともあるが)。

 人間の心理の傾向性はあるかもしれない。例えば、美味しいものを食べたら「幸せ」を感じるという傾向性はあるかもしれない。しかし、それもあくまで「傾向」の話だ。常日頃から美味しいものを当たり前のように食べていて、もはや「幸せ」を感じない者もいるかもしれない。

 やはり特定の個人がどのような心理状態にあるかを判断することは難しい。判断したと(思っていた)しても、その判断が合っているのか間違っているのか分からない。本人に問うてみようにも、その人が自らの真意を答える保証はない。

 欧米が正しくてそれ以外が誤っているという単純な認識に立脚してはいないのだが、「他人の気持ちは悪魔にも分からないという諺がありますよ。彼は何を言ったか、何をしたかといってお聞きなさい。彼は何を思っていたかと聞いたって無意味です」という言葉は覚えておくべきであろう。

 何度も言うが、他人の気持ちは分からない。他人の気持ちを推測しようとするとき、それはどこまでも「憶測」であるだろう。そのように思っていた方が良いのではないか。

 他者に気持ちを推測される身になって考えてみてほしい。自分の気持ちを言い当てられたことはあるかもしれないが、果たして必然的に言い当てられたのだろうか?偶然ではないのだろうか?自分の気持ちを百発百中で言い当ててくる者はいるだろうか?おそらく、親しい家族や友人であってもあなたの気持ちを完璧に言い当てることができないであろう。

 また、あなたは常に同じ気持ちを抱いているだろうか?おそらく、同じ状況・環境下に置かれたとしてもその時々で抱く気持ちが異なるだろう。これが人間の性ではないのだろうか?我々人間の心理・気持ちは常に同じ現れ方をするのではないだろう。

 同一人物に同一内容のことを言われたとしても、その時々の体調や機嫌によって反応が異なるだろう。機嫌が悪いときには、普段なら気にも留めないような些細な言動に対しても腹が立つものだろう。

 勿論、かくいう私も今「人の気持ち」について話している。それゆえ、私の話の真偽は正直のところ分からない。文を書くことによって何かを主張しようとする身としては何とも無責任な態度ではあるだろうが、「人の気持ち」の如何については確かめようがない。

 ただ、「人の気持ち」について知りようがないことをもって、それに対する言及を避けなければならないのだとしたら、何も言えなくなってしまう。なので、せめてできることとして、私は断定を避けて、「……かもしれない」「……だろう」と表現に曖昧性を含ませ、「……だろうか?」という読者への問い掛けを用いている。

 という感じで、「人の気持ち」「他者の気持ち」について言及する際には慎重にならなければならない。他者の気持ちを(まぐれではなく)必然的に言い当てることはできない。人は自分の主観でしか世界を経験できない。あなたは他者の気持ちを知ることはできない。他者もあなたの気持ちを知ることはできない。

 他者の気持ちをうがった見方で推測してはならない。そのような推測は「人身攻撃」という誤謬・詭弁にもつながり得る。それゆえに誤った議論にもつながり得る。

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