他者の罪は自分の罪を正当化しない【相殺不可能な自分の罪】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「相殺不可能な自分の罪」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

相殺法とは

 相殺法というのは、相手の言うことに「うん、それはそうだ」と賛成してみせながら、「しかし、こういうこともある」と重箱の隅をつつくようなことを言い出して、相手の言い分を帳消しにしてしまおう、という作戦である。

 一対一の論争になると、「強引な方が勝つ」ことが多い。私の知り合いでも、夜遅くまでピアノがやかましいので、苦情を言いに行ったら「お宅だって、昼間エレクトーンをひいてるじゃないの」と怒鳴り返されて、すごすご引き返したという気の毒な奥さんがいる。架空の例ならもっと酷いのをいくらでも作れるが、いくつかの作品をお目にかけよう。

①「ミネオちゃん、宿題済んだ?」

 「ママ、洗濯済んだ?」

②「困ったねえ、こんなところに車を停めちゃあ……うちの車が出られないじゃないか」

 「何だこの野郎、おめえ、車停めたことがねえってのか?偉そうなこと言うな」

③「あのう、お宅のピアノのことなんですが、夜分はやめていただけません?うちは子供が小さいものですから……」

 「あーら、お宅のお子さんのうるさいの、知らないの?それにお宅でトイレ流す音だって、すごいのよ?どうお、お宅で、トイレやめてくれる?」

 最後に一つ、聖書(ヨハネ伝第八章)から、「美しい相殺法」を引用しておこう。

 ここに学者・パリサイ人ら、姦淫のとき捕えられたる女を連れ来たり、真中に立ててイエスに言う。

 「師よ、この女は姦淫のおり、そのまま捕えられたるなり。モーセは律法に、かかる者を石にて撃つべきことを我らに命じたるが、なんじはいかに言うか」

 イエス身をかがめ、指にて地にもの書きたまう。彼ら問いて止まざれば、イエス身を起して

 「なんじらのうち、罪なき者まず石を投げ撃て」

 と言い、また身をかがめて地にもの書きたまう。彼らこれを聞きて良心に責められ、老人をはじめ若き者まで一人一人出で行き、ただイエスと立てる女とのみ残れり。

 「女よ、なんじを訴えたる者どもは何処におるぞ、なんじを罪する者なきか」

 「主よ、誰もなし」

 「我もなんじを罪せじ、往け、この後再び罪を犯すな」

 自分の罪との相殺を認めて、女を許したパリサイ人たちも、立派ですね。

 野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p46~p49

 相殺法もまた頻繁に見受けられる詭弁・強弁である。「はい。あなたの言うように私は悪いです。でもあなただって(私のとは別の)悪いことをしているでしょ」というような主張の仕方が「相殺法」の基本的な形である。

 つまり、相殺法とは「私も悪いけどあなたも悪いでしょ」と、(本件においては無関係な)相手の非を持ち出すことによって自分の非を棚に上げて誤魔化そうとする詭弁・強弁である。また、相殺法を用いることで「お互いに非がある」ということを強調し、「お互い様」的な方向性での引き分け決着に漕ぎ着けることもできるだろう。

 相殺法は立派な詭弁・強弁である。「相手の言い分を帳消しにする」という詭弁・強弁である。(騒音対策の観点から夜分の楽器演奏は慎むべきだという社会通念がある社会において)あなたがお隣さんに夜分のピアノ演奏への苦情を申し立てたとする。その際に「あなただって昼間にエレクトーンを演奏してるでしょ」と返された。あなたは何と反論するべきか?

 「私の昼間の演奏が迷惑だったのであれば謝りますが、私は今 “あなた” が “夜分“ に出す騒音について話をしているのです。私の非を持ち出してきたところであなたの非がなくなるわけではありませんよ。しかも私の演奏は昼間、あなたのは夜分です。どちらかと言えば夜分の演奏の方が近隣に迷惑をかけると思うのですが。というか、”あなただって演奏してるでしょ“ と私に言うってことは、あなたの夜分の演奏が近隣に迷惑をかけていることをあなた自身も認めているんですよね?」という感じで反論すればよいだろうか。

 よくよく考えてみれば相殺法が理に適っていないことが分かるはずだ。夜分のピアノ演奏への苦情とその対応・反論という会話において論点となっているのは「夜分のピアノ演奏」である。苦情主の「昼間のエレクトーン演奏」という話は論点ではない。

 これは “論点ずらし” だ。「夜分のピアノ演奏が迷惑である」ということは暗に認めつつも、論点をずらして自らの「夜分のピアノ演奏」を棚上げしようとしている(もしくは「お互い様」という引き分け決着に持ち込もうとしている)。言わずもがな、罪(非、悪行)は他者の罪によって正当化されるものでも相殺されるものでもない。罪は引き算することができないのである。

 「みんなが犯している罪だから自分もその罪を犯してもよい」という認識や「みんなが犯している罪なのに、なぜ私だけが罰されなきゃならないの!?」という犯罪者の常套句は誤っているとみなせるはずだ。そのような認識や常套句に対しては「たとえ他者やみんなが罪を犯していたとしても、罪を犯していいことにはならない」「みんなが罪を犯していても、罪を犯してはならないということ自体は変わらない」などと反論できるだろう。あなたがもし警察官であれば、「今はあなたの罪(違反)について問うている。他の誰かの罪は今関係ない」と冷静に反論することができるだろう。

 これと同様の論理で相殺法も誤っているのだ。相殺法ユーザーに対しても同じように「今はあなたの罪について問うているのであって、他の誰かの罪は今関係ない。ましてや、他の誰かが罪を犯しているという事実をもってあなたの罪が軽減・消失することはないよ」と反論することができる。

 (宿題に取り組むよう促すという意図を込めて)「宿題済んだ?」と子供に尋ねたら、子供に「ママ、洗濯済んだ?」と返された。きっとママは閉口してしまうだろう。子供にこのように返答されたら、一本取られたような気がするだろう。しかし反論は可能だ。「ママがまだ洗濯をしていないことは、あなたが宿題を始めなくてもよい理由にはならないわよ」と反論すればよいだろう。

 とはいえ、子供に宿題をさせるには「今からママも洗濯を始めるから、あなたも宿題を始めようね」と言う方がより効果的だろう。なぜなら、そのように言うことによって相殺法の効力を打ち消すことができるからだ。子供が「ママが洗濯していないから、僕も宿題をしなくてもよい」という相殺法的認識を示したことを逆手にとって「じゃあママが洗濯をし始めるなら、あなたも宿題をし始めるのよね?」と、(できれば不敵な笑みで)圧力をかけることができれば、子供は言い返すことができなくなってしぶしぶ机に向かうことだろう。

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