大海を進む大型船は方向転換に時間がかかる

議論
スポンサーリンク

 今回のテーマは「大海を進む大型船は方向転換に時間がかかる」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

ルール50:相手に考慮を促して話を終えよう

 たとえ世界一の論証を披露したとしても、それは討論のほんの一部でしかない。討論が私たちと共にあるのは、様々な視点から、不明確だったり論点が多かったり矛盾したりする多くの事実や主張を引き出し、多種多様な結論をもたらすからだ。例えば、数百年に渡って多くの哲学者が幸福について討論してきた。そこに進歩があるのは確かだが、単純に「勝利」した論証は無いし、そもそも勝利などあるべくもない。

 一つ一つの論証は違いを生むかもしれないが、たとえどれほど正しくてもたった一つの論証が全てを変える例は稀だ。一つ一つの論証が、討論の一つの側面に言及して、他の論証を変革したり向上させたり、新たな視点やアイデアを取り上げ……そうした時間の流れにつれて変化していく。だが、討論そのものは一般に、まるで大海で方向を変える大型船のようにゆっくりと変化するのだ。

 要するに、ディベートは忍耐を要する。甲板の上でどんなに騒いでも説得しても、大きな船はゆっくりとしか方向を変えられない。そして、船全体を方向転換させようとしても、その船には四方八方に様々な論証が積まれていて、たとえその一部を変化させられたとしても、最重要テーマに関わる考えは変わらないかもしれない。古いやり方の方が理に適っているように思えたりするものだ。あなたや私が(正直なところ)部分的にはもっと良い案があると認めても、なお自分の考えにこだわるのは、不合理とは言い切れないが、それは相手も同じ理屈になる。変化に必要なのは時間だけでなく、より魅力的な全体像もまた重要だ。

 どんなに素晴らしい意見を主張しても、話し終わった途端に、みんなが賛成に回ってくれるはずだなどと期待してはいけない。それよりも、彼らが偏見の無い心で考えてくれるように促そう。意見を変えるかどうか考えてくれることを期待するのだ。そしてここでもまた、あなた自身が自分の意見を再考する姿勢を示すことが、成功するための最大の鍵となる。相手を言い負かそうとするステレオタイプな「論証」では、相手を頑なな態度に押しやってしまうだけだ。

 私たち自身が感情的な意味合いの強い言葉を使ったり、疑わしい情報源に頼ったり、相手のさもしいやり方に倣ったりするなど、悪い論証をしようという気持ちに駆られることがあるだろう。たしかに、そうした誘惑は強力だ。だが、最後に二点の警告で締め括ろう。

 第一に、長い目でよくよく注意してみれば、悪い論証は一般に良い論証の価値を貶める。これは社会のためにならない。残念ながら、明確さや思慮深さを求められるのは相手側ではなく、こちら側であることが往々にしてある。結局のところ、良い論証にこだわることが、勝利への唯一の道だ。

 第二に、正直な話、もし相手側がさもしいやり方を繰り返すのであれば、彼らはその点において一枚も二枚も上手のはずだ。経験を積んで、良心の呵責に苦しむことも少なくなっているだろう。あなたに勝ち目はない。だから、あなたの得意なやり方でやりなさい。誇り高く論証するのだ。そして、それこそが正しい道でもある。

 できる限り公明正大に、思慮深く論証を提起しよう。前向きな提案をしよう。相手の話を最後まで聞き、きちんと理解し、心を通じ合わせることに全力であたろう。だが、討論は続くのだと認識しよう。人生は短く、討論は長い。公共の場でもそれ以外でも、討論の他にも時間や労力をかける価値のある建設的な事柄はたくさんある。いつか一歩退く必要が生じる場合もあるだろう。相手に考慮を促して話を終えよう!

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p172~p175)

 議論は一つの結論を導き出そうとするものではなく、「多種多様な結論」を導き出すものである。とはいえ議論において導き出されるのは結論だけではない。多種多様な結論に達することができるような議論においては、不明確なものや論点や矛盾、すなわち「理解できない物事」や「解決・改善すべき物事」がたくさん挙げられる。我々は何を理解できないでいるか?我々は何を問題視しているのか?我々は何を解決・改善すべきなのか?ということそれ自体を明確にする良い機会を議論は提供してくれる。

 議論すべきことはたくさんあるから心配はない。しようと思えば議論はできる。議題(トピック)に事欠くことはない、これまでもこれからも。引用内でも述べられているが、「勝利した論証」などないのだ。真理や真実や正解や答え、そのような絶対的・統一的・唯一的・普遍的・不変的なものなど存在しないと思った方が良いだろう。そのようなものが存在するにしても、人間には理解不能・観測不能・到達不能なのだろう。これから解決や解明に至る問題・不思議もあるのかもしれないが、それは、人類の知や経験が現在よりもっと積み重ねられた遠い未来においてのことだろう。

 現時点で言えることは、人類が何千年もかけて考えて、考えて、考えて、話し合って、話し合って、話し合って、争って、争って、争って、試して、試して、試して………というような積み重ねの上に立っている我々現代人にも未だ多くの問題(課題)や不思議が残されているということだ。

 無論、こうした人類の営みは無駄ではない。むしろ、彼らが何度も何度も考えて話し合って争って試してくれたおかげで我々は生きながらえている。ただ、人類が何千年もかけてもなお問題や不思議は現時点で残存している。問題や不思議はほとんど無限にあり、我々人類の手には余るものなのかもしれない。

 しかし、我々人類は問題に苦しみ続けている。不思議に好奇心をくすぐられ続けている。そうであるからこそ我々は問題や不思議に挑むのではないか。それらに苦しんだり好奇心をくすぐられたりすることがなければ、そもそも「問題」や「不思議」と捉える必要すらない。自他の苦しみを和らげるためには、自分の好奇心を満たすためには、問題や不思議に向き合い苦闘しなければならない。我々現代人も先人に倣って問題を改善・解決しようとしなければならない。不思議を解明しようとしなければならない。そして、先人が我々につないだように、我々もまた後進にバトンをつながなければならない。

 どんな議論もどんな論証もどんな見解もどんな誤りもあまねく人類知の大きなうねりの中で燦然と輝くだろう。議論する勇気を持った者は、問題や不思議に関係せざるを得ない人類の歴史の中でとりわけ意義深い存在だ。自他の論証を変革したり向上させたりし続け、新たな視点・アイデアを摂取・生産し続けることで我々の歴史は紡がれる。

 往々にして歴史は後世によって劇的に演出されるものだが、とある一時代を実際に生きる者にとっては、社会変化・時代変化は認知できないほどに鈍足だ。「まるで大海で方向を変える大型船のようにゆっくりと変化するのだ」。考えに考えて、飽きるほど話し合っても結果はすぐに出ない。我々一人一人の微力が大型船を操舵するのにも時間はかかるし、その操舵が実際に航路の変更に作用するまでも時間はかかるのだ。その間も我々は引き続き考えなければならないし、話し合わなければならない。忍耐強く試行錯誤し続けなければならない。社会変化・時代変化のために多大な時間と労力が必要になるのは勿論のこと、自分の頭の中で考えをまとめたり他者と話し合ったりするためにも多大な時間と労力が必要となるのだ。

 以上のような必要性が存在する中で、頑固な態度をとったり感情的になったりするのは不適切であろう。ましてや疑わしい情報源に依拠したり、詭弁を弄したり、感情的な言葉に頼ったり、論破しようとしたりするのは甚だ不適切である。楽に何かを理解できると思ってはならない。何かを可能にすることは楽ではない。考えたり話し合ったりする時間と労力をショートカットして何かを得ることなどできない。「悪い論証」は人々の対話を著しく阻害する。詭弁を弄して論破しようとしてくる者と話したいとあなたは思うか?そのような者とまともに話せるとあなたは思うか?

 我々はみんなで考えなくてはならない。自分の思考・アイデアだけにこだわるのではなく、他者の思考・アイデアを認めたり摂取したりするべきだ。我々一人一人は独力では何も為すことができない。ましてや何かを成すことなどできない。人間は他者と関係せざるを得ない。一人で世界を良くすることなどできない。スーパーマンなどいないのだ。

 ギロンバが提唱する議論に勝敗はないが、勝敗の基準を強いて挙げるとすれば、感情的な言葉を使ったり、詭弁を弄したり、他者を攻撃したりしたら「負け」である。「負け」というか、「イエローカード/レッドカード」である。警告・退場である。繰り返し警告されたら退場だ。よほど悪質な場合は一発退場だ。

 「悪い論証」は議論も社会も破壊する。現在、「悪い論証」が横行していて議論そのものが貶められている。現在、議論は悪いイメージを持たれている。議論は、他者を論破したいだけの攻撃的な人が集まる無法地帯であるとみなされている。真剣に話し合いたいと思っている人が議論を遠ざけるような事態になっている。これは既存の議論(というか “自称”「議論」)が「悪い論証」を行う者に対して警告・退場処分を下してこなかったからだ。反則が横行し、反則した者勝ちという事態を放置してきたからだ。当然、このような事態は改善・解決しなければならない。

 「できる限り公明正大に、思慮深く論証を提起しよう。前向きな提案をしよう。相手の話を最後まで聞き、きちんと理解し、心を通じ合わせることに全力であたろう」。これが議論と論証の基本だ。対立するのではなく、協力するのだ。謙虚であることを心掛け、退くという選択肢を常に持っているべきだ。勝ち負けではない。議論に勝ち負けなどない。議論を通じて、みんなで問題や事象についての理解を深めて最適解や妥協点を探るのだ。

 皆さんがインターネットで怪しいと思った情報があれば、ぜひこちらへ投稿お願いします。

 また、参考文献および関連本はこちら

タイトルとURLをコピーしました