寅さんに理屈は通じない

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「寅さんに理屈は通じない」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

フーテンの寅さんが、妹のさくらの恋人である若者(博)をやりこめるところを、ご覧いただこう。

博「もし、仮にあんたに好きな人がいて、その人の兄さんがお前は大学出じゃないから妹はやれんと言ったらあんたどうする?」

寅「なに俺に好きな人がいてその人に兄さんが…バカヤローいるわけねえじゃねえか、冗談言うなって」

博「いや仮にそうだとしても、今の俺と同じ気持になるはずだと…」

寅「(カッとして)冗談言うなよ、俺がお前と同じ気持になってたまるか、馬鹿にすんなこの野郎」

博「なぜだ?」

寅「なぜだ、お前頭が悪いな、俺とお前は別の人間だ、早え話が俺が芋食えばてめえの尻からプッと屁が出るか?どうだ」

博「…」

寅「ザマ見ろ、人間理屈じゃ動かねえんだ、言いたいことがあったら言ってみな、馬鹿」

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p5~p6

 寅さんと博の上のやり取りを見てあなたはどのように思っただろうか?あなたの身近に寅さんのような人はいるだろうか?

 引用内の寅さんのようになってしまえば、もう話は通じないものだと思った方が良いだろう。こちら側がいくら論理的・合理的であることを心掛けようとも、寅さんのような相手にはこちら側の意思やメッセージは届かないし響かない。「人間理屈じゃ動かねえんだ」と言われるだけであろう。「理屈じゃ動かねえ」人間は、論や理に対して全く聞く耳を持たないだろう。

 見てもらえれば分かるように、寅さんは、博の「仮の話」に全くもって応じる気配がない。「仮の話」を頑なに拒否し、「自分(寅)と博が別の人間であること」に話を逸らし、しまいには感情的な発言しかしなくなる。

 とりわけ、「早え話が俺が芋食えばてめえの尻からプッと屁が出るか?」という寅さんの発言に対して、博は「…」と黙り込んでしまっている。つまり、博は寅さんに言いくるめられてしまっている。では、博はどのように返答・反論すればよかったのか?

 例えば、「今俺が話してるのは、気持の話であって、消化器官の話じゃない。たしかに、人と人の消化管が連結したり、自分が食った芋が誰かの消化器官に転送されたりすることはあり得ない。ただ、別の人間同士が同じような気持になることはあり得るだろ?というか、あんたと俺が別の人間だっていうのは当たり前だ。そのうえで、あんたがそういう立場に立ったらどう思うか?っていう “仮の話” をしている」みたいなことを言うのも良いだろう。これはあくまで一例だ。読者のみなさんも寅さんに反論してみよう。

 『詭弁論理学』の後のページには、こうも書かれている。

 議論として本当に強いのは、実は議論にも何にもなっていない、寅さん流の「押しの一手」ではないかと思う。

 寅さんには「もし、かりに」という仮定の話は通用しない。「好きな人の兄さん」というのが暗に自分のことを指していることなど、考えもしない。彼が首ったけである冬子という女性は一人娘なので、「バカヤロー(兄さんなんか)いるわけねえ」となる。そのあとの議論も、相手の言いたいことなどそっちのけで、言葉尻をとらえて頭に浮かんだことを言い散らす。これは子供どうしの口喧嘩にもよくある型である。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p8

 ここで言う「押しの一手」とは、先程の寅さんの引用においては「早え話が俺が芋食えばてめえの尻からプッと屁が出るか?」の部分だろうと思う。実際、この「押しの一手」に対して博は「…」と何も返せないでいる。

 このような理屈抜きの「押しの一手」は、「強弁」と呼ぶべきであろう。これに対して、多少とも論理や常識をふまえて「相手を丸め込む(あるいは誤魔化す)」のが「詭弁」である。「詭弁」が詐欺や窃盗にあたるとすれば、「強弁」はさしずめ強盗になる。実際には泥棒が居直って強盗になるように、詭弁と強弁を織り交ぜたようなやり方もあるに違いないが、基本技術としては詭弁と強弁を区別しておいた方が便利なので、私たちもこれらの言葉を一応区別して使うことにしたい。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p10

 なるほど、寅さんのような「押しの一手」は「強弁」と言うのか。「詭弁」の段階では一応、論理や常識に曲がりなりにも依拠しているが、「強弁」の段階にまで至ると、もはやそれは「なりふり構わない」「無理矢理な」言い分である。

 無論、詭弁も強弁も議論ルール違反である。両者の差は違反の程度の差である。詐欺・窃盗と強盗くらいの差である。どちらもやってはならないことには変わりない。ともかく、「強弁」と「詭弁」を区別するのは興味深い試みである。

 最後に、もう一つ引用する。

 真実とは、たとえば「議論に強いからといって、頭がよいとは限らない」ということである。昔から「無学者、論に負けず」というように、相手の言うことなどまるで分からない(分かろうとしない?)石頭の方が、えてして自分の言いたいことを押し通してしまったりするものである。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p4

 「相手の言うことなどまるで分かろうとしない石頭の方が、えてして自分の言いたいことを押し通してしまったりするものである」。悲しいかな、これは事実のように思われる。やはり既存の議論においては、自己中心的で声の大きな強情っ張りの方が勝ったように見えてしまう(というか、そのような議論を「議論」とも呼びたくないが)。「勝った」のではない。「勝った “ように見える”」のである。

 何度も言っているが、議論に勝敗はない。このことをしっかりと認識しておけば、自己中心的で声の大きな強情っ張りが勝っているように見えたり、議論に強く見えたり、論破上手に見えたりすることはなくなるだろう。

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