主流には主流なりの、異端には異端なりの理由がある。【専門家間で意見が一致しているか否かを確かめる】

議論
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 今回のテーマは「専門家間で意見が一致しているか否かを確かめる」である。引用から話を始めよう。

ルール16:情報源を異なる視点からチェックするーひとつの意見だけに頼らない

 複数の情報源にあたって内容を比較し、優れた専門家の間に意見の不一致があるかどうか確かめよう。専門家たちの意見は割れているか、それとも一致しているか?もし大半の意見が一致していれば問題なく受け入れられる見解であり、それに反対する意見はいくら説得力があるように思えても実は浅慮と言っていいだろう。専門家の意見が間違っていることは時としてある。だが、素人の見解はそれ以上に間違っているものだ。

 ただし、複数の意見を検討すると、専門家の間にも意見の相違があることがある。その場合は、時間をかけて判断しよう。豊富な知識を持つ人々が慎重に扱っている問題を慌てて判断してはいけない。異なる立場から議論するのもいいし、自分の結論を見直すのもいい。

 人間は1000年生きられるのだろうか?複数の情報源をチェックしてみれば、デ・グレイの研究は綿密な調査のもとに巧妙に構築されていると認められてはいるものの、専門家の多くは彼の説に賛成していないことが分かる。強い批判も多い。彼は主流から外れた存在だ。

 よくよく探せば、重要なテーマの大半には何らかの意見の不一致がある。さらに悪いことに、一部のテーマについては、その道の権威とされる専門家の間では実質的に不一致が無いにもかかわらず、論争が作り上げられている場合がある。例えば、世界的な気候変動についてはかつて専門家間で意見の不一致があったが、現在では、気候が地球規模で変化しており人間活動がそれに一役買っているという考えは、科学の世界ではほぼ満場一致の見解となっている。たしかに、未だに一部のメディアや選挙活動において声高な反対意見があるものの、データを可能な限り客観視する経験豊かな気候科学者たちの間では、異論はまずない。気候変動のコンセンサスについては理論づけされた批判がいくつかあるが、専門家のほぼ全員による最良の判断では、要点は変わらない。一部の批判はこの分野の研究の発展に寄与したが、批判者はたとえその道の権威とされる専門家であっても(明確に)主流から外れた存在である。

 現実の証拠あるいは専門家の判断ではなく、イデオロギーが原動力になることがある。それらをどれほど真剣に受け取るべきかを知るために、こうした論争とされるものを検討する必要があるかもしれない。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p73~p75)

 「専門家たちの意見は割れているか、それとも一致しているか?」。とある問題についての専門家の立場・見解を引用して提示する際には、その専門家の立場・意見が主流派か否か、その問題を巡っては意見の一致や概ねの統一見解があるのか否かを確認する必要がある。「もし大半の意見が一致していれば問題なく受け入れられる見解であり、それに反対する意見はいくら説得力があるように思えても実は浅慮と言っていいだろう」。「浅慮」は少しばかり言い過ぎかもしれないが、それでもやはり、専門家の大半が採っている立場や見解にはかなりの説得力があると思ってよいだろう。

 とある問題についての専門家たちの統一見解を論駁するのはとても難しい。ましてや、その論駁を専門家ではなく、素人が行うというのは至難の業だ。「専門家の意見が間違っていることは時としてある。だが、素人の見解はそれ以上に間違っているものだ」。

 とはいえ、専門家の間でも統一見解が未だに存在しない問題も多い。そのような場合は、専門家の間にどのような意見や立場の相違があるのか?主たる対立を生んでいる争点、すなわち主たる対立軸は何なのか?立場の間の形勢は現在に至るまでどのように推移してきたか?などについて慎重に思慮深く判断を下すべきである。これと同時並行で、自分の結論や論証を見直してみることは持論に磨きをかける上でとても大事であるだろう。

 「豊富な知識を持つ人々が慎重に扱っている問題を慌てて判断してはいけない」。これは肝に銘じておくべき言葉である。言わずもがな、特定の問題に関して専門家は素人よりも豊富な知識を持っている(それが「専門家」たる所以である)。

 勿論、専門家も万能ではないので誤ることもある。しかし、彼らは多大な時間と労力とお金をかけて、高水準の手法や設備を用いて、他の同業者との議論を重ねて、特定の問題について考えたり実験したりして研究することを生業としている。この世には、そのような者たちが一生懸命考え抜いても結論が出ない問題ばかりあるのだ。

 歴史的な視点から見ても、古今東西の数々の類稀なる天才たちが思考や実験や議論を何千年も重ねてきている。それでも結論が出ない問題ばかりなのだ。それなのに、どうして素人が結論を導出できようか。素人にはそのようなことができるべくもない。専門家や史上の類稀なる天才ですらできないのだから。このように考えると、「結論や答えや真実というものが存在する」というのは錯覚だと思った方が良いとすら思えてくる。

 勿論、専門家全員が上記のような能力や態度を持ち併せているわけではないこともまた確かだ。そのような専門家に遭遇することもままある。(若輩者ながら言わせてもらうと)既存のアカデミアには改善すべき点も多々ある。しかしながら、専門家が素人よりも多大な時間と労力とお金をかけて、素人よりも高水準に研究していることは確かである。

 「重要なテーマの大半には何らかの意見の不一致がある」と言うとき、意見が一致しているテーマが重要ではないと言っているわけではないだろうが、これは確かなことのように思える。なぜ意見が一致しないのかというと、そのテーマが各々にとって妥協できない類のものだからである。あるテーマに関して人が安易に妥協できないとき、その人は当該テーマに対して何か特別の意義やこだわり、譲れない思想や理由を持っている。

 しかし、「その道の権威とされる専門家の間では実質的に不一致が無いにもかかわらず、論争が作り上げられている場合がある」。これは非常に厄介な問題である。

 たしかに、世界的な気候変動に対してはイデオロギー的な「非人為論」や「そもそも気候変動など起こっていない」というような反対意見が投げかけられている。このような反対意見はインターネットやマスメディア、ひいては政治の場でも頻繁に取り沙汰される。しかし、引用内にある通り、「現在では、気候が地球規模で変化しており人間活動がそれに一役買っているという考えは」「気候科学者たちの間では、異論はまずない」。現在の気候学や環境学においては人新世的な考え方が主流なのである。

 ちなみに、「人新世」とは、「2000年にドイツの大気化学者P=クルッツェンが地質時代の区分の一として提唱した時代。完新世後の人類の大発展に伴い、人類が農業や産業革命を通じて地球規模の環境変化をもたらした時代」( 人新世とは – コトバンク (kotobank.jp))のことである。

 先述の通り、専門家の大半が採っている立場や見解にはかなりの説得力があるのだ。このような統一見解(主流派)から外れた立場や見解は、主流から外れているなりの説得力の乏しさがあると考えた方が良い。

 このことに対して、次のように反論する者があるかもしれない。「しかし、科学においては非主流派から主流派になる見解もあるではないか。例えば地動説とか。今、主流派から外れているといって、それを一概に説得力が乏しいと言うのは間違っている」と。

 たしかに、科学という世界においては非主流派が主流派になったり、非主流だった見解が常識になったりする。地動説が良い例である。発明や発見とは常識を崩すことであるとも言えるかもしれない。しかし、常識を崩すほどの大発明や大発見は一朝一夕では成らない。例えば、ピタゴラスやアリスタルコスからコペルニクス、ケプラー、ガリレイ、ニュートンという系譜が物語っているように、地動説の主流化には途方もない歳月を要した。

 我々は未来人ではないので、どのような見解が、未来の常識・主流派の地位を占めることになるのかを知らない。それゆえ、現代人は現在の形勢に依拠することでしか議論できないのだ。たとえ、今では非主流派に甘んじている見解が未来において主流派の地位を占めることになるとしても。どの時代においても人は、今ある条件や今置かれている状況に依拠して考えたり議論したりするしかない。

 未来人から言わせれば「過去の遺物」的な誤った前提に則って議論をしていることもあるのだろう。そうだとしても、我々現代人がしている議論は誤りではない。これを誤りと評すのは結果論でしかない。なので、我々も天動説に基づいて為された過去の議論を否定してはならない。

 というか、そもそも、「かもしれない」という不確定の未来は根拠にならない。勿論、未来について考えることは議論の目的の一つである。しかし、未来のことは誰にも分からないので、「未来では~かもしれない」ということは根拠にならない。未来について考えるべきではあるが、未来そのものは根拠足り得ない。このことを頭に入れておこう。

 私は、非主流派を軽視すべきだと言っているわけではない。それこそ、後の大発明や大発見の芽を摘まないようにするためにも、非主流派の見解を安直に否定せず、その見解の良いところをしっかりと認めなければならない。主流派だからといって全てが正しいわけではないし、非主流派だからといって全てが正しくないわけではない。

 主流を外れている見解であっても、自分で考えてみて説得力や妥当性を感じるのであれば、それは未だ日の目を見ていない潜在的に有力な見解であるかもしれないし、金銭的(助成金や研究費など)・イデオロギー的(国家体制や固定観念など)・政治的(学校や学会から地方、国家、国際政治など)な理由で主流から遠ざけられている不遇の見解であるかもしれない。これらを発掘することもまた議論の大きな目的である。

 今回はここまでだ。今回覚えておいてほしいのは「専門家の意見を引用するときは、その専門家の立場や意見が主流か否かを検討し、非主流派であるならば引用にあまり説得力を持たせられないということを自覚しよう。ある問題に関して専門家の間に意見の不一致がある場合には、当該問題の争点や対立軸が何であるかを検討しよう。また、非主流派の見解を安直に否定してはならない。なぜなら、その見解は後の大発明や大発見につながるかもしれないからだ」ということである。

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