真実だから真実なのだ/Yesと答えようがNoと答えようが不利を被る質問【循環論法/複問】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「循環論法/複問」である。まず、「循環論法」について説明しよう。以下は引用である。

循環論法

 論点先取と同じ。

 ワープニュースに書かれていることは真実だ。なぜならこのサイトの方針は「真実だけを伝える」であるから、それもまた真実に違いない。

 現実世界の循環論法はさらに大きな円を描くものだが、いずれにしろ、全てが都合よく終わるようになっている。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p182)

 たしかに、「循環論法」という誤謬は「論点先取と同じ」である。ちなみに、辞書的な意味を確認してみると、「循環論法」とは「論理学で、論点先取の虚偽の一。証明すべき結論を前提に用いる論法」(循環論法とは – Weblio辞書)だそうだ。「論点先取」とは、「論理学で、論証においてそれ自身証明を必要とする命題を前提として採用するところから生じる虚偽。循環論証の虚偽、先決問題要求の虚偽、不当仮定の虚偽など」(論点先取の虚偽とは – Weblio辞書)だそうだ。

 上記の引用内の例においては、「ワープニュースに書かれていることは真実だ」という結論を、「このサイト(ワープニュース)の方針は『真実だけを伝える』であるから、それもまた真実に違いない」という前提をもって証明しようとしている。もっと簡潔に言うと、「真実だ」という結論を、「真実に違いない」という前提をもって証明しようとしているのだ。つまり、「真実だから真実なのだ」と言っているのである。無論、これは適切な論とは言えない。

 言うまでもないかもしれないが、この例の場合、前提を証明することと結論を証明することとの間に何らの差異が無い。(文言やニュアンスの多少の差はあれ)結論と前提が同じ内容なのである。結論が真であることを証明するために、前提が真であることを証明しようとするのだが、その前提が真であることを証明するためには、結論が真であることを証明する必要がある。しかし、その結論を証明するためには、前提が真であることを証明する必要がある。しかし、その前提が真であることを証明するためには、…………というように「循環」してしまうのである。勿論、「循環」であるので、終わりはない。

 加えて、Wikipediaの「循環論法」(循環論法 – Wikipedia)のページに分かりやすい例が掲載されていたので、それを紹介しよう。「『ハムレット』は名作である。なぜなら『ハムレット』は素晴らしい作品だからだ」。この場合、「名作である」という結論を証明するために「素晴らしい作品だからだ」という前提を据えている。つまり、「ハムレットは素晴らしい作品だから名作なのだ」と言っているのである。「素晴らしい作品であること」と「名作であること」は(多少のニュアンスの差はあれ)同じ内容であるとみなして差し支えないだろう。

 引用内の例もWikipediaに掲載されている例もいずれも単純なものである。「現実世界の循環論法はさらに大きな円を描くもの」であり、一見したところでは循環論法か否か、すなわち誤謬・詭弁か否かを判別することが難しい。そのような場合は多々ある。

 そのような場合に我々がなすべきことは、「”結論” とそれを証明するための “前提“ のそれぞれの内容をしっかりと把握すること」である。そうすることで、循環論法を見抜くことができるようになる。

 勿論、自分が論証する際にも循環論法に陥ってはならない。持論を論証する際にも「結論と前提がそれぞれ、どのような内容になっているのか」を常に把握しておくべきだ。

 自分の思考といえども、常に自省的に気を配らねばすぐに(無意識に)誤った方向へと進んでしまうものだ。「自分の思考は常に誤っているものだ」と想定するくらいが丁度よいと思う。誤りは悪いものではない。誤りに気付かないことは悪い。誤りを認めないことはもっと悪い。個人的にはそう思っている。くれぐれも自分の思考やその正しさを過信しないように。

 次に、「複問」という誤謬について説明する。以下は引用である。

複問

 一つの質問の中に複数の論点を含ませて、相手に肯定も否定もできなくさせてしまうこと。単純な例としては、「あなたはまだ、以前のように自己中心的なのですか」という質問が挙げられる。このように尋ねられた場合、「はい」と答えても「いいえ」と答えても、自分はかつて自己中心的だったと認めることになる。もっと巧妙な例では、「あなたは懐具合ではなく自分の良心に従い、寄付をしますか」という寄付の求め方が挙げられる。「いいえ」と答えることは、寄付をしない本当の理由が何であれ、ばつが悪く感じられる行為となる。「はい」と答えることは、寄付をする本当の理由が何であれ、高潔な行為となる。寄付をしてほしいのなら、正直に頼むのが一番良い。

アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』ちくま学芸文庫、2018年)、p183

 これは無意識的な「誤謬」というよりかは、「自分の意見を押し付けようとする “意図” 」をはっきりと感じる「詭弁」であるとみなした方が良いだろう。これはなかなかズルい詭弁である。

 一つの質問は一つの論点で構成されなければならない。上記の引用内の例で言えば、「あなたは自己中心的なのですか」や「あなたは寄付をしますか」と質問しなければならない。つまり、この場合、質問者は、「自己中心的か否か」「寄付するか否か」という一つの論点で、回答者がYes/Noという二者択一で回答ができる質問にしなければならない。

 「はい」か「いいえ」かの二者択一で回答することを要請するような質問の形態(「どのように思いますか?」「なぜですか?」というような質問ではなく、「~ですか?」というような疑問詞のない質問)でありながら、その実、二者択一では回答できないような質問。これが「複問」という詭弁である。勿論、「はい」か「いいえ」かでは回答できない質問・問題も世の中には山ほどあるのだが、「複問」は、 “二者択一の回答を要請しているふりをしながら” 、回答者がその要請に応じると何らかの不利を被るという点が非常に悪質なのだ。

 「複問」に対して回答する際には、(引用内の前者の質問のように)「はい」と答えようが「いいえ」と答えようが回答者が不利を被ったり、(引用内の後者の質問のように)(感情的に、あるいは自分に対する誤解が生じることを防ぐために)特定の回答をしにくくなるという状況に置かれたりする。これは「誘導」ともみなせそうな詭弁である。

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