恋は盲目、憎悪も盲目、魔女狩りは終わらない【万能なレッテル貼り】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「万能なレッテル貼り」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

 魔女狩り(ウィッチ・ハンティング)は、12、13世紀に始まり、18世紀まで続いた「魔女皆殺し作戦」である。いわゆる魔女(ウィッチ)ばかりでなく、男の魔法使い(ウィザード)をも巻き込んだこの大作戦で、数百万の犠牲者(一説には900万人ともいう)が出たという。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p34~p35

 今回は「魔女狩り」の強弁について取り上げてみようと思う。

 コトバンクの「魔女狩り」の項(魔女狩りとは – コトバンク (kotobank.jp))には三つの事典からの引用が掲載されているので、詳しく知りたい人は読んでみてください。以下で、そのコトバンクのページから魔女狩りの強弁的な要素を抽出・引用してみようと思う。

 1484年、法王が回勅「緊急の要請」を公布して魔女の存在を断定し、審問官の活動を擁護したのに続いて、86年『魔女の鉄槌(てっつい)』が公刊されたとき、本格的な魔女狩りの時代が始まった。著者はインスティトリスおよびシュプレンガー。ともにドミニコ会士でドイツの異端審問官であった。恐るべき魔女のイメージは、この本によって決定されたといってよい。全編を貫くのは狂信的な危機感、嗜虐(しぎゃく)的な使命感で、たとえば、教会に行きたがらぬ者は魔女の疑いがある、熱心に教会に通う者は偽装した魔女である、と断定している。さらに恐るべきことは、この本が絶対の権威として世に行われたことである。当時の神学者や教会関係者のすべてが論旨に同調したわけではないが、一度権威を確立したのちは、『鉄槌』批判は魔女たることの自白に等しかった。宗教改革以後は、プロテスタント諸国でも教典として受け入れられる。

 魔女裁判では拷問が用いられ、自白が強要された。拷問によっても自白しないときには、自白しないという事実が悪魔の保護下にある証拠だとして断罪された。

魔女狩りとは – コトバンク (kotobank.jp)

 異端者,ユダヤ人をはじめ,思想的,精神的,身体的に異質であるとされた人々までもが魔女として残酷,不条理な迫害を受けた。

 魔女狩りは 17世紀末から 18世紀初頭にかけて終焉に向かったが,強者が弱者を,また多数者が少数者を裁く異常な社会心理は,1950年代アメリカ合衆国のマッカーシズムにみられるように,現代にもその根を残している。

魔女狩りとは – コトバンク (kotobank.jp)

 魔女裁判では、めちゃくちゃな強弁によって有罪判決=魔女認定が行われていたようだ。「教会に行きたがらぬ者は魔女の疑いがある」だの「熱心に教会に通う者は偽装した魔女である」だのと断定されて火炙りの刑が確定してしまっては、たまったもんじゃない。そのような断定がまかり通ってしまうような裁判において弁解することは不可能であろう。

 拷問によって自白したら火炙りの刑。拷問によっても自白しなかったら「自白しないのは、こいつが悪魔の手下だからだ!」として火炙りの刑。ちなみに、魔女認定された者が刑の土壇場に際して自白を撤回しないように、自白を撤回しなければ絞殺後に火炙りにするという優しさ(?)が与えられて、自白を撤回したら長い時間をかけて弱火でじっくり焼き殺されたという。

 もうめちゃくちゃである。強弁の極致のような強弁である。このような強弁の餌食となったのは主にマイノリティだったようだ。また、財産目当てで富者を魔女認定することもあったようだ。先述の通り、論理などあったもんじゃないので、やろうと思えば誰でも魔女認定することができる。自分にとって都合の悪い者、地位を失墜させたい者、スケープゴートにしたい者などを無理矢理な強弁によって魔女と認定して殺すことができる。

 これが「魔女狩り」である。魔女が実在するかどうかなんて、裁判で魔女認定された者が本当に魔女かどうかなんて、そもそも何故魔女は罰されなければならないか(それも火炙りの死刑によって)なんてどうでもよくなっていたのだろう。この女は魔女に違いない。魔女は焼き殺されるものだ。この女は焼き殺されなければならない。そんな感じで、結論ありきの裁判が行われていたのだろう。

 このような、ただただ「気に食わぬ者を貶める・殺すための論法」(本当はそれを “論法” とも言いたくはないが)は、18世紀初頭の魔女狩りの終焉とともに潰えたのではなかった。現在に至るまで人類社会に普遍的な現象として跋扈したままである。

 特に、1950年代の「赤狩り(マッカーシズム)」は魔女狩りの再来であり、「気に食わぬ者を貶めるための論法」の代表格だった。「赤狩り」とは、「国家権力が共産主義者や社会主義者を弾圧したり検挙したりすること」(赤狩りとは何? Weblio辞書)である。

 自由民主主義の旗振り役であるアメリカにおいて共産主義支持者(赤色が象徴)が非アメリカ的・敵国の内通者(スパイ)であるとされ弾圧・迫害・追放された(狩られた)。同時期にアメリカ軍を中心としたGHQの指令によって日本においても共産主義支持者が公職や企業から追放されるという「レッド・パージ」の旋風が巻き起こっていた。

 「気に食わぬ者を貶める」という広義の魔女狩りは現代においてもなお根強く広く存在している。勿論、我々の身近なところにも存在している。本家「魔女狩り」も「赤狩り」も “レッテル貼り“ の一つとして捉えれば、いかに身近な現象であるかが想像できるだろう。意識的か無意識的かを問わず、”レッテル貼り” を用いた強弁は至る所で見受けられる。

 ここで引用しよう。

現代の魔女狩り

 強権を振るっての、あるいは「悪魔のイメージ」を利用した二分法は、今でも各所で使われている。「あいつはアカだから気をつけろ」とか、「保守反動」「曲学阿世」「裏切り者」「○○主義者」などというレッテルによって、相手の発言(あるいはその効果)を封じ込めようとする作戦は、そういう言葉に悪いイメージを持っている人たちに対して、非常に有効に働くからである。こうして「どこがどう悪いのか、どの点は認めなければならないか」という細かい議論は吹き飛ばされて、「根本的に間違っている」という結論が強調される。

 最近の体験では、教育界でよく使われる「選別」という言葉を振り回す、若いお母さんに会ったことがある。話の始まりは、子供に絵を習わせるかどうか、ということであったが、お父さんは「子供が習いたいといったら習わせればよい。才能があるかどうかも分からないんだから」と主張した。ところがお母さんは「はじめから才能がないと決めつけるのは、子供を選別することになる。今すぐ習わせるべきだ」と反論して、議論がなかなか収まらなくなった。

 おとなしいお母さん方だと、「選別」というようなキツイ言葉を聞かされただけで、口がきけなくなってしまうかもしれない。「そんな恐ろしいこととは、思っていませんでした」で、二分法が通ってしまう。しかし「選別はいけない」という大前提を押し付けようとするのは、この場合、強弁でしかない。

 問題は、習う事柄が絵ばかりでなく、「ピアノや英語も考えられる」ということである。習わせないのが選別で、選別がいけないことなら、子供にピアノも絵も、ソロバンも水泳も、ありとあらゆることを習わせなければならない。「そんなことは無理だ」から、どれか一つを選ぶというなら、やはり子供に好きなものを選ばせるべきではないのだろうか?断然「絵を習わせよう」などというのは、何のことはない、親の趣味を子供に押し付けようとして、「逆らう者は悪魔(選別)である」と言っているに過ぎない。これこそ子供の自由を奪う、選別ではないか!

 もっと一般的な手法としては、相手と自分の些細な違いを取り上げて「あの人は大学を出ていないから、そんなことを言う」とか、「あの人は東大を出ているから、あんなことが言える」などという下らない論法がある。下らないといっても防禦的な自己主張の術としてはバカにできないので、なかなか手強いものである。要するに学歴や職業・年齢・性別など、ありとあらゆることがレッテルになり得るということで、「敵か味方か」の二分法に合わせて、感情的に振り回されることが多い。

 こういう感情論を、論理で押さえることはできない。また人間誰しも感情を持たない人はいないから、意見に感情が反映するのはむしろ自然とも言える。しかし各自が自分の感情を大切にすることはよいとしても、それが他人の感情を無視する「わがまま」にまで膨れ上がるのは、好ましいことではない。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p40~p43

 ある時代、ある社会において広く否定的なイメージを喚起する属性や言葉が存在する。中世ヨーロッパにおける魔女、太平洋戦争中の日本における天皇不支持者・反戦的立場を公表する者、1950年代のアメリカにおける共産主義者(赤)などなど。

 時代や社会が異なれば否定的なイメージを惹起する属性や言葉もまた異なるのだが、そのような属性や言葉そのものは古今東西において普遍的に存在していると言えるだろう。そうでなければ「レッテル貼り」は成り立ち得ない。広く社会で否定的に語られる属性や言葉が存在しているからこそ、相手にその属性や言葉を背負わせることによって相手を不利な状況へと追い立てることが可能になるのだ。

 しかし言うまでもなく、レッテル貼りは根拠を欠いた感情論である。レッテル貼りに「事実であるか否か」という基準・尺度は不要である。事実であってもそうでなくても、相手にレッテルを貼りさえすれば相手の評判は失墜し、相手の話に耳を傾ける者はいなくなる。事実だろうが誤り・嘘だろうがレッテルを貼られてしまえば嫌われ者・はぐれ者になり、話をろくに聞いてもらえなくなる。

 レッテル貼りは論理を用いずに、人の感情に訴えかけることによって特定の誰かを貶める手口である。中世ヨーロッパにおける「魔女」認定された者の発言、戦時中の日本における「非国民」の発言、1950年代のアメリカにおける「共産主義者」の発言はいずれも聞く耳を持たれなかっただろうし、彼らの発言をしっかりと聴こうとする者は「魔女」や「非国民」や「共産主義者」の同調者であるとされて彼らと同じように弾圧・迫害・追放されただろう。

 「魔女」認定された者や「非国民」や「共産主義者」の発言がいかに論理的・合理的であっても、レッテル貼りという感情論を前にしては何らの意味を為さない。彼らの発言がいかに論理的・合理的であろうとも、彼らに貼られた(背負わされた)レッテルが人々に惹起する嫌悪感には敵わない。良くも悪くも感情は論理に勝る。「恋は盲目」と言うように、恋慕や愛情は論理を些末なものにする。一方、嫌悪や憎悪もまた論理を些末なものにする。嫌悪や憎悪に囚われた者もまた盲目なのである。憎悪は盲目なのだ。

 レッテル貼りを可能にするのは「否定的なイメージや嫌悪感を惹起する属性や言葉の存在」と「人の意思決定・言動に論理よりも強い影響力を与える感情」だけではない。「嫌われたくない(自分に否定的なイメージを付けたくない)という感情」と「嫌われると(自分に否定的なイメージが付いてしまうと)自分の話を適切に聞いてもらえなくなるという現状」を忘れてはならない。これら二つの要素があるからこそレッテル貼りは存在し続けることができているのだ。

 嫌われることが好きな者、嫌われたい者は多くはないだろう。「他者に嫌われたくない」と思っている者が大多数であるはずだ。しかも、濡れ衣を着せられることによって嫌われるのは誰にとっても避けたい事態であるはずだ(私は、天皇不支持者や共産主義者であることが罪であると述べているのではない。私見によれば、そのどちらも罪であるべきではない。私はあくまで、特定の属性や主義主張が罪であるとされている社会の現実について述べている)。

 しかも嫌われてしまうと、自分の論がいかに正しかろうと、「嫌い」「嫌われている」というだけで全否定されてしまうのだ。だから、レッテルを貼られたくない。無根拠なレッテルを貼られるだけで自分の発言権・発言力が失われてしまうという現実があるので、レッテルを貼られたくない。「嫌われても構わない。自分は自分だ」という信条を持つ者でも、その多くは自分の発言権・発言力まで失いたくないと思っているので、レッテルを貼られないようにするしかない。

 では、レッテルを貼られないために人はどのように心掛けているのか?簡単だ。レッテルを貼られそうになったら沈黙・閉口するのだ。引用内の例のように、「あなたは子供を選別するつもりなのか?」とレッテル貼りをちらつかされたら「いや、そういうつもりはないです……」と言って退くしかないのだ。

 なぜなら、事実であろうとなかろうと「子供を選別するような人間」というレッテルを貼られて、周りの人たちがそのレッテルによって嫌悪感を惹起されてしまえば、それだけであなたの発言権・発言力は消失してしまうのだから。

 また、レッテルを貼られた者に助け舟を出す者もあまりいないだろう。先程も言ったように、レッテルを貼られた者に与する者もまたレッテルを貼られるからである。「非国民を庇うっていうことはお前も非国民なんだな!」と。いじめられている者を助けた者が次なるいじめの標的になるというように。

 レッテル貼りとはかくも恐ろしい強弁なのだ。レッテル貼りをちらつかすだけで相手の動きを封じ込めることができるという点では、レッテル貼りはまるで銃のようだ。相手のこめかみに銃を突きつけ、口答えできないようにする。言わずもがな、議論という場で銃の所持は認められていない。相手を沈黙・閉口させるような強弁は凶器でしかない。それほどまでにレッテル貼りは強力な強弁なのだ。

 では、どうしたらよいのか?

 レッテル貼りが誤り・反則であるという認識を広め、この強弁に対抗する人を増やしていく他ない。それしかない。シンプルかつ綺麗事的なことではあるが、レッテル貼りを根絶するには粘り強くコツコツと議論の理解者を増やしていき、レッテル貼りをしようとする者を牽制していくしかない。

 基本的に人間は嫌いな者の話を聞きたいとは思わない(嫌いな者を批判したいがために、あるいは嫌いな者の揚げ足を探すためにあえて話を聞こうとすることはあるかもしれないが)。「嫌いな奴の意見だから悪い意見であるはずだ」などと思ってしまうこともある。しかしそれではダメだ。

 議論する際には、他者の発言に真剣に耳を傾けなければならないし、人格と意見とを結びつける思考をしてはならない。自分の嫌いな人の発言だからといって、魔女の発言だからといって、非国民の発言だからといって、共産主義者の発言だからといって、天下の大悪党の発言だからといって、その発言の内容が悪いとは一概に言えない。人格の如何と意見の如何には何らつながりもない。人の意見を聴く際にはその人の人格ではなく、意見そのものの内容をしっかりと吟味するべきだ。

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