ぶぶ漬けを勧められても帰らずに食べる。【感情的な言葉の使用と他者の意見の変形は禁止】

議論
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 今回のテーマは「感情的な言葉の使用と他者の意見の変形は禁止」である。引用から話を始めよう。

ルール5:感情的な意味合いの強い言葉は避ける

 大げさで感情的な言葉をふりかざすのではなく、具体的な根拠を提示しよう。

 反対意見を脚色したり歪曲したりして、自分の論証を見栄え良くしようとしてはいけない。一般に、どんな主張であれ、真剣で偽りのない考えに基づいているものだ。他人の考えを理解しようと努めよう。他人の考えを正しく理解しようとすることは大切だ。たとえ、あなたにとって全く賛成できない意見であっても。例えば、新しいテクノロジーを疑うからと言って「洞窟生活の時代に戻る」ことに賛成する人はおそらくいないだろう(では、彼らは何に賛成するのか?尋ねてみる必要があるだろう)。また、進化論を信じるからと言って自分の祖父母がサルだったと主張する人もいないはずだ(では、彼らはどう考えているのか?)。一般に、他人の見解に反論しようとするなら、まずはその人がどう考えているか、きちんと理解する必要がある。

 (アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p30~p32 )

 議論参加者による感情的な言葉は、議論に不要である。というより禁止である。「いつ何時も冷静に」は議論の鉄則であり、感情的な言葉によって特定の見解に聞き手を誘導しようとしたり、「反対意見を脚色したり歪曲したり」、他者と他者の意見を貶めたりすることは絶対にやってはならない。これは肝に銘じておいてほしい。

 特に、「反対意見を脚色したり歪曲したりして、自分の論証を見栄え良くしようとしてはいけない」という忠告は、既存の議論について鑑みるならば、特段重要なものであると言えよう。というのも、既存の議論においては、自分が反論しやすくなるように他者の意見を脚色・歪曲し、変形・アレンジするという「反則」がまかり通り過ぎている。

 この反則は主に「レッテル貼り」という現象として現れる。レッテル貼りとは、偏見や固定観念に基づいてとある物事を一言で言い表すことである。過度の単純化や極端な解釈の一形式であると言えるだろう。既存の議論には様々な反則が跋扈しているが、この反則は特に頻繁に見受けられる。

 「他人の考えを理解しようと努めよう。他人の考えを正しく理解しようとすることは大切だ。たとえ、あなたにとって全く賛成できない意見であっても」。この言葉をそっくりそのまま頭に叩き込んで欲しい。

 言わずもがなではあるが、他者の述べたことをそのまま理解するように努めよう。曲解したり、解釈に自分の偏見を持ち込んだりしないようにしよう。他者の述べたことを自分の都合の良いように変形させるなどもってのほかである。これは禁止事項である。他者の発言内容を単純化したり極端化したりしてはならない。「新しいテクノロジーを疑うからと言って『洞窟生活の時代に戻る』」と言っているわけではないし、「進化論を信じるからと言って自分の祖父母がサルだったと主張」しているわけではないのだ。単純化や極端化に走ることなく、他者の意見のありのままを受け取るのだ。

 「京の茶漬け」という上方落語の演目の中に「ぶぶ漬けでもいかがですか?」という有名な婉曲表現が登場する。この婉曲表現は「帰ってください」ということを遠回しに言う表現だそうだ。この表現が実際に用いられているかどうかはともかく、日常生活においては「ぶぶ漬けでもいかがですか?」=「帰ってください」でよい。しかし議論をしている際に「ぶぶ漬けでもいかがですか?」と言われたら(言われるはずないが)、相手が私にぶぶ漬けを勧めてくれていると捉えて、「はい、頂きます!」と答えて遠慮なくぶぶ漬けを頂こう。

 つまり、何が言いたいのかというと、議論においては、相手の言葉を額面通りに受け取ろうということだ。空気を読んだり、言葉の裏に潜む意図を推測したりするのではなく、とりあえず言葉通りに解釈しよう。一方、持論を提示する方もそのような婉曲表現は用いずに、(他者と他者の意見を傷つけない限りにおいて)具体的で明瞭で詳細な言葉で自分の論を表現しよう。

 「一般に、他人の見解に反論しようとするなら、まずはその人がどう考えているか、きちんと理解する必要がある」。その通りである。ここで大事なのは、「(人の考えを)きちんと理解する必要がある」ということだ。あくまで「理解する」のであって、「推測する」のではない。他者の考えを推測しようとすると、どうしても自分の偏見や固定観念や感情が推測に多大な影響を及ぼしてしまう。そうなると、他者の考えを、その他者の意図ではなく、自分に都合の良いように、自分の捉えたいように捉えてしまう。

 これを防止するために、議論においては参加者全員が具体的で明瞭で詳細な言葉・表現でコミュニケーションすることを心掛け、参加者全員が他者の発言を額面通りに捉えることを心掛けるべきだ。文章に裏の意味を込めて、それを相手に読み取ってもらおうと期待するのではなく、自分が相手に伝えたいことの100%を文章に込めるのだ。ここは掲示板だ。掲示板という場では、文章で相手に伝えるしかないし、相手の文章を読むことでしか相手の考えは分からないのだ。

 別に話は逸れたわけではないが、「感情的な言葉」についての話に戻そう。『論証のルールブック(第五版)』に良い例とその説明が掲載されていたので、それを紹介する。なお、一部の内容を分かりやすく改変している。

 面目ないことに、かつてあれほど隆盛を誇った旅客鉄道をすっかり衰退させてしまったアメリカは、いまや名誉にかけて過去の繁栄を取り戻す義務がある!

 この文章は鉄道に旅客を取り戻そうと主張しているようだ。だが、結論を裏付ける証拠は何もなく、感情的な意味合いの強い言葉ばかりが並んでいる。

 旅客鉄道が「衰退」したのは「アメリカ」が何かをした、あるいはしなかったせいなのか。一体何が「面目ない」のか。「かつて隆盛を誇った」組織が混迷に陥った例は数多くあるが、そうした組織を全て立ち直らせなければならない、というのは理屈に合わない。アメリカが「名誉にかけて」鉄道の繁栄を取り戻さなければならないのは、どうしてだろう?約束を破ったとでもいうのか。だとしたら、誰に何を約束したのだろう?

 例文の論証が論拠を挙げていないのは問題である。感情的な表現にばかり頼った挙句、まるで説得力がないのだ。これでは何が言いたいのかまるで分からない。感情的な表現は必要以上の説得性を発揮することがあるのは言うまでもないが、論証に必要なのは実際的かつ具体的な証拠である。

 言わずもがな、持論を提示する上で我々主張者の感情は論拠にはなり得ない。我々の感情の強さや声の大きさは論拠にはなり得ない。たとえ立派な演説を聞いて心を揺さぶられて感銘を受けたとしても、それで納得してはいけないのが議論である。心を揺さぶられて感銘を受けることを否定しているわけではない。議論においてそれは何の論拠にもならないと言っているのだ。

 なぜ感情は論拠足り得ないのか?なぜなら、感情は極めて主観的だからだ。たとえ同じ感情(楽しいや悲しいなど)であっても、感情は人によって様々な点(感情の強弱・程度や感情の生起する条件など)で異なる現れ方をするからだ。多くの人が感銘を受けたという演説を聞いても、感銘を受けない人はいるだろうし、そもそも感銘を受けた人が全員同じ感情の状態なのかと言えばそうではないだろう。同じ感銘の中にも程度の差があるし、感銘の受け方にも差異があるだろう。これまた言わずもがな、人々は同じ感情や同じ基準を持ってはいないのだ。議論に必要なのは論証であり、「論証に必要なのは実際的かつ具体的な証拠である」。

 また、解答が「人の好みによる」ものとなりやすい話題(例えば、この世で一番おいしい食べ物は何か?)は議論に不適である。人の感情や趣味嗜好そのものについては議論できないものと思ってほしい。

 ただ、アルコールやタバコなどの身体的・公共的なデメリットが取り沙汰されるもの、つまり、身体や公共空間に何らかの悪影響を及ぼすとされている特定の趣味嗜好の在り方(規制の必要性や棲み分けの方法など)については議論すべきだ。しかしこの際にも、アルコールやタバコを楽しんでいる方や彼らの趣味嗜好そのものを否定したり貶めたりしてはならない。

 また、事件や事故や災害、はたまた社会問題などの被害者が抱いている感情については議論においても考慮する必要がある。勿論、その感情について言及している書籍や資料は参考文献として提示しなければならないが。とはいえ、彼らの感情を過度に取り上げすぎるのも良くない。言い方は悪いが、「泣き落とし」と捉えられてしまう可能性があるからだ。

 議論において禁止されているのは、感情そのものではなく、議論参加者が感情的になることと、議論参加者が他者を説得したり誘導したりするために感情的な言葉・表現を用いることである。

 別に私は感情を貶めたり軽視したりしているつもりはない。むしろ、人の持論は感情から生起することがほとんどである。しかし、感情から生起した持論であっても、それを客観的な根拠や合理的な推論によって裏付けなければ議論はできない。裏付けることができそうになければ、その持論は議論においては取り下げるべきだ。

 議論はあくまで、参加者が感情を抑え込みながら行うコミュニケーションである。感情から生起した持論はそのままの裸の状態では議論という舞台に立てない。議論という舞台に立つためには、その持論に論証という衣装を着せなければならない。

 今回はここまでだ。今回覚えておいてほしいのは「感情的な言葉の使用を避け、相手の言葉をそのまま捉えるようにする。自分が反論しやすくなるように相手の論や言葉を変形させるのは禁止である。たとえ自身の感情から持論が生起したという経緯があったとしても、論証なしにはその持論を議論という場に提示することができない」ということだ。

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