未知や未解決問題への素晴らしい冒険【謙虚に楽しく議論する】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「謙虚に楽しく議論する」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

強弁と人柄

 強弁術を振り回すことができるかどうかは、頭の良し悪しでも技術の問題でもなく、結局は人柄の問題である。自信の強い人が強弁を始めたら、少々相手の痛いところを仄めかしてみても通じるはずがなく、「釘を刺した」つもりが「馬耳東風」で「糠に釘」ということになりかねない。したがって、よほど言葉を選んで、相手が見落としている点をズバリと衝くか、あるいは第三者に立ち会ってもらうことが望ましい。それでも正論が通らないときは、むしろその第三者に語りかけた方が有益である。

 小児病患者たち(子供っぽい強弁を振り回す者)は、あなただけでなく他の人々をも悩ませているので、必ずどこかで損をしている。あなたは自分が大損をしないようにすれば、それだけで(相手に比べて)得をすることになる。がっかりすることはない。老若男女を問わず、またどこに行っても、「良い奴」と「嫌な奴」がいるものであり、「嫌な奴」はまだ何といっても少数派である。少々のことなら、あなたは大きく構えて相手を憐れんでやればよい。

 「大きく構える」ということは、「自分の方が間違っているのかもしれない」という謙虚さを持つことでもある。それがなかったばかりに、スペインのトマス・トルケマーダのように、敬虔と清廉を謳われながら、16万人のユダヤ人を追放したり、1万人を超える異端者を拷問の後処刑するような人が現れるのである。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p57~p58

 強弁術に長けた者が強弁を振り回すというよりかは、自信過剰で「自分や自分の意見が絶対的に正しい」と無根拠に妄信し「謙虚の “け” の字も知らない」者が強弁を振り回すのである。

 強弁や詭弁の使用は技術の問題というよりかは特定の性向や心掛けの欠如の問題である。(意識的にしろ無意識的にしろ)自分の意見や考えを押し通そうとするという性向、そのような性向を抑えようとも謙虚であろうともしないという心掛けの欠如が強弁や詭弁の存立基盤なのである。

 自分の意見や考えを絶対的に正しいと妄信し、それを他者に押し付けようとするという性向は(程度の差異こそあれ)誰にでもあると思う。勿論、私もそのような性向からは逃れられていない。

 しかし、自分の意見や考えが絶対的に正しいわけがない。少し言葉を加えると、自分の意見や考えが “客観的に” 絶対的に正しいわけがない。自分の意見や考えが絶対的に正しいという我々の妄信は、我々の主観の為せる業である。自分自身や自分の考えは常に「自分にとって正しい」だけであり、「自分だけにとっての正義」に適うだけである。

 上記のようなことを認識し、「自分が間違っている可能性」を常に意識するという謙虚さを持つことによって強弁や詭弁はある程度抑えられるものである。

 当たり前だが、この世では自分以外の人間も生活している。しかも大勢。北海道で暮らしている者もいれば東京で暮らしている者もいる。ロンドンで暮らしている者もいる。上海で暮らしている者もいる。シカゴ、リオデジャネイロ、カイロ、バグダッド、イスタンブール、ヤンゴン、ジャカルタ、その他数えきれないほどの街や地域に人が暮らしている。

 2歳の者もいれば80歳の者もいる。23歳の者もいれば54歳の者もいる。大人もいれば子供もいる。自営業もいれば会社員もいる。学生もいれば教員もいる。金持ちもいれば貧乏人もいる。与党支持者もいれば野党支持者もいる。

 それなのに、他の誰でもなく自分自身だけが正しいなんてことがあるだろうか?自分の考えだけが正しいなんてことがあるだろうか?これまた当たり前だが、人の考えは十人十色である。人の数だけ考えがある。人の数だけ意見がある。

 これはもはや「謙虚であれ」という話ではなく、「当たり前」の話だ。誰でも知っていることだ。人はたくさんいる。その各々がそれぞれ独自の意見や考えを持っている。このように認識しさえすれば、「謙虚であれ」という説得すら不要である。

 なぜなら、そのように認識しさえすれば「謙虚であらざるを得ない」ことに気付くからだ。詭弁や強弁を振り回す者はこの「当たり前」の話を理解することができないのであろう。極度の視野狭窄ゆえに今この瞬間の自分自身のことしか考えることができないのであろう。至極簡単なことにも気付かぬほど余裕がないのであろう。他者の存在すら認識できぬほど自分自身のアイデンティが危機に瀕しているのであろう。

 適切な議論に身を投じるのであれば、その勇気さえあれば、現時点で謙虚になれていない者でも議論を通じて新たなアイデンティティを獲得できるだろう。

 未解決問題や未知へと冒険し、他者との協働の末に新たな策や理解や発見へと到達する。このことがどれほど人類や人類史にとってどれほど意義あることかは筆舌に尽くしがたい。適切に運用しさえすれば、議論は万人にとってアイデンティティの源泉となる。

 議論は人と人との協働の場、交流の場である。勿論、意義深い出会いだってあるだろう。出会った人と未知や未解決問題への新たな冒険を始めることだってできる。アニメや漫画でなくとも冒険はできるのだ。アニメや漫画は素晴らしい冒険譚である。しかし、現実世界における議論もまた素晴らしい冒険譚の舞台になり得るのだ。みんなと協働して未知や未解決問題へと向かっていく。その気さえあれば、素晴らしい冒険譚はあなたとみんなのものになる。以上の表現は何も過言ではない。議論にはこれほどまでに潜在的能力がある。

 詭弁や強弁を振り回しているような寂しく孤独な者は是非とも適切な議論に関わっていただきたい。秩序ある適切な議論は、既存の孤独な似非議論とは違う。適切な議論に関わるようになれば、もはや孤独には苛まれないだろう。みんなと協働して未知や未解決問題へと冒険するという輪に加われば、あなたはもう他者と自分を傷付けなくて済む。

 私は今、「自分の好きなものを他者に勧める」という気持ちでこの文を書いている。参加者全員が知ることや学ぶことや改善・解決することを志向するような議論は面白いし楽しいし、そのうえ「人類史規模の壮大な取り組みに関わっている」ような気持ちにもなれるし、オススメだ。

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