極論で語れるほど人間や世界は単純ではない【二分法・二項対立は現実に非ず】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「極論で語れるほど人間や世界は単純ではない」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

二分法

 権力者や組織の有能な指導者たちは、思いついたことをただ言い立てるような、単純な強弁術は使わない。もう少し詭弁術に近い、しかし精神的・肉体的・経済的その他諸々の威嚇を伴う、有効な技術を駆使する。その一つがここで取り上げる二分法である。

二分法とは

 人々や考え方などを、ある原理的な基準で二つに分けてしまう考え方を、二分法という。テレビっ子なら全ての人間を「ワルモノ」と「イイモノ(善人)」に分けるであろう(イギリスの子供は、昔の王様の話が出るとすぐ、「それ、いい王様?悪い王様?」ときくという)。このように分けるのは、話を簡単にするためには便利であるが、善と悪の谷間に彷徨う凡人たちを十把一絡げにして悪人扱いにしてしまうと、色々問題が出てくる。

 たとえばここに、悪を憎むスーパー・ロボットが誕生したとしよう。そのロボットが、一回でも悪いことをしたことがある人間を、皆殺しにするとしたら、世の中はどうなるであろうか?また、殺さないまでも、「一度でも過ちを犯した者は罪人だ。だから私の言うことに従わなければならない」として、奴隷的な労働を強制するとしたら、どうであろうか?そのロボットは、良いことも悪いこともするという人間の実情を無視して、二分法を乱用したことになる。世の中は真っ暗、そこでテーマ・ソングにのって、鉄腕アトムかグレートマジンガーが登場する……。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p33~p34

 「二分法」の辞書的な意味を見てみると、「一般に全体を二つの部分に分けること」「論理学で、概念を互いに矛盾する二つの下位概念に区分すること。たとえば、「人間」を「白人」と「非白人」に分けることなど」(二分法とは – Weblio辞書)だそうだ。その同義語(類義語?)である「二項対立」には「相対する概念や、相容れない考え方。生と死、明と暗など」(二項対立(にこうたいりつ)とは何? Weblio辞書)という意味があるそうだ。善と悪、敵と味方、愛国者と非国民などが二分法の例である。最近メディア露出の多い某有名ホストの「俺か俺以外か」という言葉も二分法の一例である。

 勿論、全ての二分法が悪いわけではない(たとえば、先述の「俺か俺以外か」という言葉は多くの支持を得ている言葉であろう)。しかし、議論における二分法は不適切な思考枠組みとなってしまうことが多い。なぜなら二分法では複雑怪奇な現実世界を適切に描写できないからである。世の中には善人と悪人しかいないだろうか?引用内で著者が例示していたように、一度でも悪いことをしたことがある者を「悪人」と定義するのであれば、この世には善人と悪人しかいないことになる。いや、それでも(法律や規範など)善悪の基準は時代や場所によって異なるので、そのような定義に立脚したとしても「善人と悪人しかいない」と二分法的に言い切ることは難しいだろう。というか、そもそも「一度でも悪いことをした人=悪人」という定義に賛成する人はおそらく少ないだろう。交通量の少ない車道を信号無視して渡るだけで悪人とみなされることに納得する人はおそらく少ないだろう。

 たしかに、ちょっとした信号無視も違反行為には変わりない。悪いことには変わりない。しかし、世の中はそんな単純な認識で動いてはいないのだ。善と悪の間には多様な程度・グラデーションがあり、大多数の人がその程度・グラデーションのどこかに位置するのだ。有罪判決が出て収監されている者が悪人とされるのは分かるが、それでも100%悪人か?と問われればそうではなさそうな者もいるだろう(情状酌量の存在はそのような認識に支えられているのだろう)。有罪判決を受けたことがなくても悪人とみなせそうな者もいるだろう(必殺仕事人に始末されるような者とか)。法で裁かれて有罪判決を出されない限り善人であるというのもまた納得いかない気もする。私のことをいじめていた者たちは告発もされず有罪判決も受けなかったが、彼らは善人なのだろうか?当然、私にはそのようには思えない。

 というように、善と悪という極端な思考枠組みでは現実世界をうまく捉えられないのだ。万人を善人か悪人かに分けることなどできないのだ。そう考えると、神様はどのようにして死者を天国と地獄に振り分けるのだろう?と思ってしまう。まぁ、そのような離れ業ができるから「神様」なのかもしれないが。神様の話はさておき、とにかく、万人を善人と悪人に二分することは人の子には不可能である。同じように、敵と味方に分けることも、愛国者と非国民に分けることもできない。そんなことができるほど世界は単純ではない。言わずもがな、この世界には多種多様な人間が生きていて、各々の人生を統一的な一つの評価基準で一括することなどできるわけがない。両極端のどちらかに分類できるほど人間は単純ではない。二者択一・二項対立に縮減できるほど世界は単純ではない。

 我々は一般化や習慣化などによって、自らの理解できる程度にまで世界の複雑性を縮減している。そうしないと日常生活を営むことができない。とはいえ、現実の複雑性を極度に縮減して二分法に至ってしまっては、それはもはや現実を認識しているとは言い難い。二分法に囚われている者が見ているのは現実ではなく虚構である。そして、その虚構とは往々にして自分の信じたいものである。無論、虚構に立脚しながら行う議論もまた虚構である。現実と虚構の区別はとても難しいのだが、それでも議論では「現実である可能性が高いもの」を扱おうとするべきだ。そのためには、あるがままの現実をそのまま捉えようとする意図を常に持ち、あるがままの現実を可能な限りそのまま認識できるような手法を常に駆使する必要がある。

 二分法のような極端な思考枠組みに逃げて思考することをサボるのではなく、複雑な世界を複雑なまま捉えようと思考をフル稼働させるべきだ。楽をするだけでは我々は何も改善できない。何も解決できない。何も知れない。複雑怪奇な現実から目を背けずに難しいことを考えて考えて考えまくるのだ。そうしないと、我々は何も理解できないし、何が理解できないのかも理解できない。このような態度を参加者全員が共有することが議論の土台となるのだ。

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