言葉は殺人凶器になり得る【何とでも言える言葉を何とでも言わない】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「何とでも言える言葉を何とでも言わない」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

全てが幻

 インドの王様に仕えていた哲学者で、「全てのものは幻に過ぎない」という学説を持っていた人にも、なかなか面白い話がある。あるとき象が暴れて、怖くなったその哲学者が慌てて逃げたことがあった。それを見た王様が笑って、

 「お前は幻の象に怯えて逃げるのか?」

 とからかったところ、哲学者は少しもまいらなかったという。

 「王様、私が逃げたとおっしゃいますが、私の幻が逃げたところをご覧になっただけなのです」

 流石に言葉のプロフェッショナルである。こういう口の達者にかかると、非常識な学説でも打ち破るのは困難になってしまう。そこには言葉の強さよりも、むしろ「何とでも言える」という言葉の無力ささえ感じられる。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p64~p65

 引用内の例が端的に示しているが、「言おうと思えば何とでも言える」のが言葉というものである。しかし、普通、「何とでも言う」ことは論理というルールによって制限されている。論理というルールがあるからこそ人は「何とでも言わない」のだ。

 逆に言えば、詭弁家や強弁家のような “論理を拒む者” が「何とでも言う」のだ。言おうと思えば何とでも言える言葉を無制限に何とでも言うのである。詭弁や強弁を振り回す者は、ルールを守らずに好き勝手に横暴に言葉を濫用して「自分が強い」と勝ち誇り、ルールすら守らないのに勝手に一方的に「自分が勝ったことにする」。

 言わば、サッカーの試合でボールを手で持ち、投げてゴールに決めて、「俺はゴールを決めたぞ!」と勝ち誇っているようなものである。

 言わずもがな、我々人間にはルールが必要だ。ルールがないと我々人間は好き勝手に振る舞い、他者を無制限に傷付けることになる。そして、自分が傷付く危険も常に案じなければならなくなる。

 人間にとって、ルールを欠いた世界とはまさしく「万人の万人に対する闘争」の世界である。「やるかやられるか」的な世界であるとも言えるだろう。我々が国や社会や法律や規範や礼儀や道徳や倫理や論理というルールを持っているのは、その「万人の万人に対する闘争」「やるかやられるか」の世界を拒んだためであろう。

 幸か不幸か、言葉というコミュニケーション手法は極めて汎用性が高い。言葉は、世界に存在する極めて多種多様な物事を自由に記述・表現することができる(このこと関しては長期に渡る哲学的な議論があるが、ひとまずは一般的・感覚的な認識に立脚していることに留意されたい)。

 このことが何を意味しているかというと、言葉の使用に際しての大きな裁量を他ならぬ我々人間が握っているということである。言葉の良し悪しは人間の使い方次第なのである。他者への配慮・優しさや他者を理解しようとする気持ちをもって言葉を適切に慎重に使うことを心掛ければ、それが悪い言葉となってしまうことは少なくなるだろう。

 ただ、他者への配慮・優しさや他者を理解しようとする気持ちをもって言葉を適切に慎重に使うことを心掛けることは簡単ではない。そのような心掛けをもってしても100%の良い言葉が生まれるわけではない。善意が悪意を上回るほどの悪い帰結を生じさせることは往々にしてある。良かれと思って発した言葉が人を傷付けてしまうというのは人間関係の「あるある」であろう。良い(良く)言葉を使うことは簡単ではないのだ。

 しかし、そのことをもって、良い(良く)言葉を使おうとすることを諦めるのはダメだ。完璧を実現させることはできないだろうが、完璧を目指して努力することが大事なのだ。完璧を目指して努力することに価値があるのだ。「良い言葉を駆使できるようになる」という目標の達成に向けて努力することに価値があるのだ。また、このような努力は「私なんかまだまだ」「私は間違っているかもしれない」という謙虚さの醸成にも寄与する。

 ちなみに、ここで付言しておくが、良い(良く)言葉を使おうとするということは、丁寧な言葉遣いを心掛けることだけを意味しない。丁寧な言葉遣いだけが配慮・優しさではない。

 それに、丁寧な言葉遣いによって悪意を隠蔽しようという者、皮肉を込めてあえて丁寧な言葉遣いを用いる者、丁寧に言えば何を言ってもいいと思っている者も非常に多く見受けられる。このような者のためにも言っておくが、誤魔化しや悪意の遮蔽物としての丁寧な言葉遣いを見抜くことは多くの人にとって容易いことである。

 話を戻そう。

 良い言葉を使うことが簡単ではない一方で、悪い言葉を使うことは簡単である。上述のように、他者に配慮しながら良い言葉を使うことを心掛けていても、使った言葉が結果として悪い言葉になってしまうこともある。

 それなのに、他者に対する配慮を何ら行わずに良い言葉を使おうともしないで良い言葉が使えるはずがない。それだと悪い言葉になってしまうだけだろう。ましてや、人を傷付ける意図を持って言葉を使うと悪い言葉にしかならない。

 言葉は極めて便利である。便利過ぎて言葉を使わないことなど人間にとっては考えられないほどだ。だがその一方で、言葉は極めて危険な凶器でもある。人を傷付けるために言葉を用いれば、その言葉は凶器となる。人を死に追いやるほどの殺傷能力がある凶器となる。

 「指殺人」という言葉がある。SNSなどインターネット上に書き込まれた誹謗中傷が人を自殺に追い込んでしまうという事態を指す言葉である。この「指殺人」は、言葉が人を傷付ける凶器となり得ることを端的に示している。

 刃物や鈍器や銃による直接的な殺人とは違って、指殺人は言葉による間接的な殺人であるので、犯人が起訴されないこともある。たとえ起訴されたとしても殺人ほどの長期懲役刑が科されることもない。

 そのような事態に抗わなければならないが、現時点の我々としては、「配慮や優しさをもって良い言葉を使おう」という呼びかけや秩序ある適切な議論の普及促進といった取り組みによって言葉の濫用を防止していくことしかできない。

 今は、これらのできることを愚直にやり続けるだけである。何とでも言える言葉を無制限に何とでも言うような輩を野放しにしてはおけない。言葉を凶器として悪用するような輩の暴走を止めなければならない。読者のみなさんもこれらの取り組みに参加して頂きたい。みんなで良い言葉の輪を作っていきましょう。

 皆さんがインターネットで怪しいと思った情報があれば、ぜひこちらへ投稿お願いします。

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