反則が常態化すると人々の思考が退化し対立が激化する。【詭弁・誤謬とは】

詭弁・誤謬
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 このページでは、詭弁や誤謬を主に扱っていく。

 「誤謬」という言葉を辞書で引いてみると、単に「まちがえること。まちがい」(誤謬(ゴビュウ)とは何? Weblio辞書)と出てくる。たしかに、その通りである。しかし、議論という場における「誤謬」とは、「相手の判断を誤らせる論証のこと」である。

 これは、アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年)からの引用である。「議論」と「ルール・心掛け」のページと同じく、この「詭弁・誤謬」のページにおいてもこの文献から多くを引用しようと考えている(その他の文献からの引用も予定している)。では、早速、以下で引用を示してみよう。

 誤謬とは、相手の判断を誤らせる論証のことである。その魅力は抗し難く、したがってよく見かけられ、一つ一つに名前が付いているほどだ。誤謬とは良い論証を展開するためのルールに違反することに他ならない。例えば「不当原因」と呼ばれる誤謬がある。簡単に言えば原因でないものを原因として立てることであり、第5章で説明したルールに違反することである。

 つまり、誤謬とは何かを理解するには、それがどのルールに違反しているかを理解する必要がある。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p176)

 誤謬とは、端的にルール違反である。このことを大前提として頭に入れておいていただきたい。言わずもがな、ルール違反をしてはならない。ましてや、「ルールや秩序がある議論」を目指している我々ギロンバは論証のルールに違反することを断固拒否する。とはいえ誤謬は世にあふれている。それゆえに、誤謬は、我々ギロンバの試みにとっての大きな障壁となるだろう。

 誤謬には意図的なものも多い。意図的に論証のルールに違反すること、すなわち意図的な誤謬のことを、「詭弁」と呼称しても良いかもしれない。一応、「詭弁」という言葉も辞書で引いてみよう。「詭弁」とは、「道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論。こじつけ」「論理学で、外見・形式をもっともらしく見せかけた虚偽の論法」(詭弁(きべん)の意味や使い方 Weblio辞書)である。

 ただ、勿論、全ての誤謬が故意に意図的に為されるわけではない。全てが悪意のある誤謬というわけではない。「不正しよう」と企んでいなくても、半ば無意識的に誤謬は為されてしまう。無意識的な誤謬もまた非常にありふれたものである。

 また、「その(=誤謬の)魅力は抗し難く、したがってよく見かけられ」という箇所はとても大事である。誤謬は抗い難い魅力を持っている。なぜか?それは、意図的に誤謬を用いる(=詭弁を弄する)ことで「持論にあたかも説得力があるかのように偽装できる」からである。しかも「簡単に、楽に偽装できる」からである。詭弁を弄することで、論の外見が「それっぽい」ものになり、持論の論拠の薄弱さを楽に誤魔化すことができる。そのため、誤謬や詭弁はかなり頻繁に見受けられるのだ。

 意図的な誤謬や詭弁は、「論証のルールに故意に違反する行為」である。世の中にあふれている既存の議論においては往々にしてルールが設定されていないので、意図的な誤謬や詭弁が跋扈している。既存の議論(もはやそれを「議論」と呼称したくもないが)においては、詭弁を弄し、「論破」だのと自分勝手に言い張ることができてしまっている。これを「無秩序」と言わずして何と言おうか?

 このような無秩序状態が一向に改善されずに幅を利かせているせいで、人々は「思考しなくなっている」。楽な思考や楽な思考枠組み(単純な二項対立や極論など)に依拠することしかできなくなってしまい、複雑な思考や忍耐が必要とされる思考が拒否されてしまっている。複雑な世界を複雑なまま捉えようとする能力も意図も削がれてしまっている。

 人間は思考しなくなると、対立に走るようになる。というか、思考しなくなった先に行きつく楽な思考・思考枠組みそのものが、「必要以上に過度に人々の対立を煽り立てる」という性格を有しているのだ。

 このような現況に我々ギロンバは抗う。これはギロンバの主要な目的である。なので、読者のみなさんには、ギロンバと共に誤謬や詭弁について学んでいっていただきたい。次回からは誤謬と詭弁の数々を紹介していく。

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