インドに行かなくても思考することで「自分探し」はできる。【適切な論証・議論とは】

議論
スポンサーリンク

 今回のテーマは「適切な論証・議論とは」である。まずは引用から話をはじめよう。

論証を展開する

 考えをより詳細に掘り下げ、中心となるアイデアの数々を明確に示し、それぞれを論証で提示して裏付けなければならない。全てに根拠や証拠が必要となるのだから、ある程度のリサーチが求められ、他者の立場に立ちながら反対意見の論証についても検討しなければならない。これらは非常に骨が折れる作業だが、同時にためになる作業でもある。それどころか、多くの人々にとって、得るものがとても多く、思考を楽しむことができる!

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p114~p115)

 引用内で述べられていることは、「論証」する際にやらなければならないことを端的に示していると言えよう。自分の主張を裏付けるアイデアを明確に示すために、リサーチしたり、予想される反対意見について検討したりして、自分の考えをより詳細に掘り下げる。これがまさしく「論証」である。このことを忘れないでおこう。

 論証することは、「思考を楽しむ」ことでもある。自分の思考について自分が良く理解しているのは当然。このように思ってしまいがちであるが、必ずしもそうではないだろう。ただ、論証を楽しみ、思考を楽しむことで、自分の思考についてもっと深く理解できるようになるのではないか。

 リサーチをしたり反対意見を検討したりする過程の中で、あらゆる情報や意見に触れることになるだろう。情報や意見に触れるとき、我々はそれらに対して何らかの考えや感情を抱くものだ。賛成、反対、共感、反感、疑問……、はたまた何も感じなかったり何も思いつかなかったりするかもしれない。そのような考えや感情の積み重ねが自分の思考をより鮮明にさせるのだ。「私は○○に対して賛成している」「だけど、私は□□については反感を抱いている」というように、情報や意見に触れることで自分のリアクションを発見していくのだ。

 そうすることで、自分のアイデンティティや自分特有の思考の解像度が向上する。「自分探し」と言えば格好つけ過ぎかもしれないが、「自分探し」はインドに行かなくても、思考を楽しむことでも叶えられる。私はそう信じている。

 では、次に進もう。以下は引用である。

ルール29:論証する問題について考える

 まずは問題提起だが、そのとき自分の見解を必ずしも明白にする必要はない。最初から何らかの見解を提示して、それを論証で補強しなければならないと思い込まないように。同じように、例え自分の見解があっても、まず頭に浮かんだ論証を一気に書いたりしないことだ。初めに思いついた意見を書けばいいというものではない。しっかりした論証で防御できる、豊富な情報に裏付けられた意見に到達することが求められるのだ。

 調査や議論を重ねるにつれて、予想外の事実や展望が判明することも十分あり得る。そんな驚きに備えよう。意に沿わない意見を支持する論証や証拠に備えよう。自分自身の考えが揺らぐことに備えよう。真の思考とは制限の無い自由なものだ。肝心なのは、考え始めた時点では最終的にどんな結論に辿り着くかは分からないということなのだ。

 たとえ問題だけでなく意見まで求められた場合でも、様々な意見について検討してみる必要がある。それらにどう対応するか準備しておけば、与えられた見解に対して余裕を持って議論できる。例えば、非常に異論の多い問題について、誰もが何度も聞いたことのある論証を並べ立てる必要はない。そんなことをしないように!創造的な新しいアプローチを探そう。逆の立場に立って考えることも重要だ。要するに、進むべき方向をじっくり検討し、たとえ「与えられた」考えに立つ場合でも、その考えを前進させることを目指すのだ。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p115~p117)

 問題提起は「~という問題があります」というものなので、この時点・段階では「自分の見解を必ずしも明白にする必要はない」。自分の見解は、問題提起の直後で述べればいいのだ。ただ、自分の見解を述べるとき・書くときは慎重にならねばならない。頭に浮かんだからといって、それをすぐに何の吟味も経ないまま述べたり書いたりすることはおススメしない。まずは、提起した問題や持論に関する情報をリサーチしよう。持論を支持するような情報も見つけよう。そうした上で、持論を補強するような論証を作成しよう。

 「予想外の事実や展望が判明すること」「意に沿わない意見を支持する論証や証拠」「自分自身の考えが揺らぐこと」に備えることは、適切な議論に臨む上でとても重要である。我々が行おうとしているのは、予定調和の議論でも結論ありきの議論(もはやそれは「議論」ではないが)でもなく、参加者全員で深い理解や最適解(≠正解、真実)を得ようとする ”適切な” 議論である。

 適切な議論においては「過程」が大事である。たとえ最適解を得ることができたとしても、それは、最適解に至るまでに経た「過程」とセットでなければ意味を成さない。最適解と過程は、あくまで “セットとして” 把握・理解しなければならない。

 適切な議論における「過程」を経る中で、「予想外の事実や展望が判明すること」「自分自身の考えが揺らぐこと」は頻繁に起こるし、「意に沿わない意見を支持する論証や証拠」もたくさん現れる。それでこそ適切な議論である。

 自分の考えを変更することは悪いことだという風潮はあるのだが、自分の考えを変更することは悪いことでも誤りでもない。適切な議論においては、自分の考えや意見を変更することは頻繁にある。むしろ、自分の考えや意見に固執するのはよくないとすら言えるだろう。我々はあくまで “みんな” で協力して深い理解や最適解を得ることを目指しているのだ。互いの考えや意見を闘わせているのではないし、自分の考えや意見を押し通そうとしているのでもない。

 たしかに、自分の考えや意見にみんなが賛同していると嬉しいものだ。しかし、適切な議論には、「自分の考えや意見そのものに対する感情(自分の考えや意見を勝たせたいなど)」を持ち込むべきではないのだ。議論は、議論参加者の人格や感情とは無関係に存在している。(参加者が人身攻撃という誤謬・詭弁を犯さない限り)議論はいかなる者の人格も犯さない。というか、(参加者が人身攻撃という誤謬・詭弁を犯さない限り)議論においては、自身の人格が貶められたと感じる必要はない。あなたの考えや意見が変更を迫られたとしても、それは決して「あなたという人格」を傷つけるものではない。「考えや意見を変えた」ということは何らネガティブなことではない。むしろ、考えや意見を変えた自分の謙虚さや柔軟性を誇ろう。

 議論においては主張と人格は全くの別物である。そのように思ってほしい。議論においては、どうか「自分の主張を通したい」という感情は捨ててほしい。そのような感情が、適切な議論を最も阻害するのだ。そのような感情をもって持論に固執している者が多いからこそ、議論は今まで一向に改善されなかったのだ。

 議論は個人間の戦いではない。議論は個人競技ではない。議論には「敵」という概念が存在しない。議論は参加者全員で行うコミュニケーションだ。無論、他者を貶めることはコミュニケーションではない。議論は、“みんな“ で協力して問題・事象について理解を深めるためのコミュニケーションだ。議論には勝者も敗者もいない。なぜなら勝負ではないからだ。

 適切な議論を阻害しているのは、「(勝敗がないのにもかかわらず)勝者になろうとする者」と「自分が正解・正義であると信じ込み、自分の非を一切認めない者」と「自分の自己肯定感を調達するために他者を否定しようとする者」なのだ。そのような者が跋扈しているせいで(加えて、歴史的・文化的な側面もあるかと思うが)、「自分の考えや意見が否定されることは自分の人格が否定されることと同じである」と信じてしまい、「自分の人格を守るために自分の考えや意見は公表しない。ましてや議論になんて参加しない」と、多くの人が意識的であれ無意識的であれ思ってしまっている。我々ギロンバはこのような事態を改善するために、ルールと秩序のある議論を実現しようとしている。

 皆さんがインターネットで怪しいと思った情報があれば、ぜひこちらへ投稿お願いします。

 また、参考文献および関連本はこちら

タイトルとURLをコピーしました