妥協を知らない者の親の顔が見てみたい

詭弁・誤謬
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 この記事を読む前に、歪んだ負けず嫌いな子は敗北を知らない | ギロンバ-議論場- (gironba.com)という記事を読んで頂けると内容を理解しやすくなります。

 今回のテーマは「妥協を知らない者の親の顔が見てみたい」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

小児病の原因

 小児型の強弁の厄介なところは「本人がそのつもりでない」というまさにその点である。極端な言い方をすれば、「妥協したくない」から妥協しないのではなくて、そもそも「妥協ということを知らない」のである。だからこそ、自分が本日只今感じていることや決心したことを率直に述べるだけで、そのこと自体は良いとしても、他の人の言うことが少しも耳に入らず、よほど露骨に反対されない限り、自分の考えを繰り返すのである。なぜそんなふうになるのかは、人によっても少しずつ違うであろうが、よくありそうな原因を挙げてみると、次のようになる。

 ⑴自分の意見が間違っているかもしれないなどと、考えたことがない。

 ⑵他人の気持ちが分からない。

 ⑶他人への迷惑を考えない。

 ⑷世間の常識など眼中にない。

 ⑸自分が前に言ったことさえ忘れてしまう。

 そのまた原因を探ってみると、次のような事柄に思い至る。

 (A)自信が強すぎる。

 (B)好き嫌いの感情が強すぎる。

 (C)他人に対して、極めて無神経である。

 たとえば⑴の原因は(A)、(B)であり、⑸の遠因は(B)である(「今泣いた鳥がもう笑った」というように、子供の感情は現在が中心である)。

 駄々をこねれば、結局は「しようがない」と言い分を通してもらって、自信をつけている子供たち。何かというとヒステリックな叫び声をあげて、感情を(抑えるのではなく)剥き出しにする方にばかり慣れている子供たち。他人の迷惑とか、時には存在すら、眼中にない子供たち。いや親たちの中に、既にそういう親が結構いるのである。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p30~p31

 世の中には、妥協を知らない者がたくさんいる。みなさんの周りにそのような者はいるだろうか?彼らにとっては自分の考えがこの世の全てであり、自分以外の他者の考えなど存在していないと思っているようにも見受けられる。

 彼らは「自分の考え=世論の考え・人類の考え」という極めて強い自信を持ち、自分が世論や人類の代表者かのように振る舞う。それゆえに、他者の考えに対して全く聞く耳を持たずに自分の考えをただひたすらにゴリ押ししてくる。悪意の有無・程度に関わらず妥協を知らない者は多い。もはや「親の顔が見てみたい」とさえ思ってしまう。

 引用内の⑴~⑸と(A)~(C)で列挙されている「妥協を知らない原因」は、言われてみれば当たり前な話である。そういう原因があるからこそ妥協を知らないという説明は腑に落ちるはずだ。⑴~⑸の原因は(A)~(C)であり、その原因は、駄々をこねたりヒステリックに感情を剝き出しにしたりすることによって自らの言い分が通ったという経験をしたことで身に付けた自信などなのだろう。

 ここで子育て論にまで言及することは避けたいのだが(子育て論にまで話を広げるとキリがないので)、一つだけ言いたい。子供の要求・欲求を絶え間なく満たしてあげたい親心も理解できるが、他者に迷惑をかけるようなわがままな人間にならないよう我が子には我慢することも身に付けさせるべきだ。

 ここで悲観的なことを言ってしまおう。上記のような原因が分かったところで、「妥協を知らない者」を矯正するのは難しい。というか、人間一般にとって、一度身に付いた性格・性質を変形させることはとっても難しい。今の自分の性格・性質を他者に変えられそうになっていると想像してみてほしい。あなたはそれをすんなりと受け入れることができるだろうか?拒否したり反発したりするのではなかろうか?

 人は誰でも「自分が間違っている」「自分が悪い」とは思いたくないものである。自分の性格・性質やアイデンティティが他者や外圧によって脅かされることを嫌う。「間違っていないのに(悪くないのに)なんで私が性格を直さなきゃならないの!?」「なんで私が他のみんなに合わせなきゃならないの!?」などと思う。

 人間一般でさえそんな感じなのに、ましてや「妥協を知らない者」が性格・性質の矯正・変形に応じるはずがない。だって「妥協を知らない」のだから。強すぎる自信、強すぎる好き嫌いの感情、他人に対する無神経などの性格・性質を抑え込む(もしくは当人に抑え込むように強いる)ような場所を創っていくことがせいぜい可能な対処法なのではないだろうか。

 たとえば、「妥協を知らない者」に注意・退場処分を下せる審判・監視員のような存在がいる場、匿名性を排して顔や名前を公開しながら対話する場(同じ場所に実際に居合わせて行う対面形式の対話やオンライン会議における対話など)、不適切な態度をとり続ける参加者が留まりにくくなる空気感・雰囲気を醸成できる場などが考えられる。

 性格・性質を矯正・変形することが難しいなら、特定の性格・性質を抑え込むことを強いる場や特定の性格・性質が場違いとなるような(退散したくなるような)場を創っていくしかないだろう。

 議論の場はそのような場であることが求められていると思う。議論は「妥協の場」と言っても過言ではない。参加者全員に妥協する気があってこそ議論は成り立つ。妥協する気のない者に居座られると議論は崩壊してしまう。議論は堅牢ではないのだ。参加者各々の妥協、参加者各々の謙虚さ、参加者各々の適切な議論観(「議論は勝負ではない」ということ)、参加者各々の好奇心や問題意識に議論は支えられているのだ。

 また、参考文献および関連本はこちら

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