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かなた参加者
下記URLのツイート内に掲載されている画像についてです。この画像内で指摘されているようなことが川崎市で起こり得るのか、または実際に起こっているのか疑問に思いました。
当該画像内の例において、本邦出身者は本邦外出身者に対して「差別的な」発言をしていないように思うのですが、本邦外出身者の捉え方次第で市からその本邦出身者に対して勧告や罰金が下されるのでしょうか?この例における本邦外出身者は本邦出身者の発言を、(言い方は悪いかもしれませんが)被害妄想的に極端に捉えているように思います。このように、川崎市の条例は本当に受け手の捉え方一つで罰則が科されるようなものなのでしょうか?
かなた参加者野球協約のルールの範囲内であるとはいえ、罰や制裁を課された以上、やはり、それらを受け入れて全うするのが筋であると思う。日ハムから中田翔さんに課された無期限出場停止処分は、彼が巨人に移籍することによって9日間で解除された。これは言わば「ルールの抜け穴」ではないでしょうか?
野球協約第60条(1)を見てみると、この条項が、”各球団”が、その支配下に置く選手に対して罰金や出場停止などの処分を下すということを規定していることが分かる。このように、選手への処分があくまでチーム内のものになっている現行のルールでは、今回の件のように、たとえ処分を受けても別の球団に移籍してしまえば、元いたチームからの処分は回避できてしまう。実質的に、事件を起こした当該選手は不問に付されることになってしまう。
それゆえ、NPB(日本野球機構)が選手に対する罰金や出場停止などの処分を統一的に策定し、NPBが第三者機関として選手に対して処分を統一的に下せるようにするべきだと私は思う。
参考文献の欄には、私と同じ方向の意見が述べられている記事をいくつか載せました。なので、厳密性に関してはあまり保証できません。ただ、私がどのような意見を述べているかということの参考になればなぁと思って載せています。
かなた参加者私は、日本の「報道のあり方」について気になっています。
オリンピックについての報道を見聞きした際にとても気になったのですが、日本人選手が銀メダルを獲得した際に「金メダル獲得ならず」と報道したり、日本人選手が金メダルと銀メダルを獲得した際に「日本、表彰台独占ならず」と報じたりしていました。
勿論、全ての報道がそのような報道をしているとは言いませんし言えませんが、上記の例のような、否定的なニュアンスの報道は多いと感じています。
一般的に否定的な内容であるとみなされる事象(窃盗事件や殺人事件など)を否定的なニュアンスをもって報じるのは構いません。しかしオリンピックで同国人がメダルを獲得したというのは一般的には喜ぶべき(喜ばしい)事象であるはずです。そのような事象は、素直に肯定的に報道すべきだと思うのです。「○○選手、銀メダル獲得!」「□□選手と△△選手が金銀獲得!」というような感じで。
喜ばしい出来事があったときに、「素直に喜ばない」内容、わざわざ否定的なニュアンスを含ませる内容の報道があるのはなぜなのだろうか?その方がアクセス数が伸びるしバズるから。そのような理由なのでしょうか?
かなた参加者地球温暖化によって北極海の海氷が減少・縮小し、北極海航路の利便性と重要性が今後ますます向上するとの予測があります。もしそうなった場合には、その北極海航路の利権をめぐって国際的な紛争が起こったり、もしくは国際的な緊張が増したりするのではないか。私はそのように危惧しています。
ロシア、中国、アメリカの三つの大国による争い・緊張が北極海航路問題の主題・主軸となってきそうですが、オホーツク海と太平洋と日本海に面している日本も他人事ではないでしょう。地政学的にも、国際政治経済の影響力的にも、日本もこの問題の当事者となると考えられます。むしろ、北極海航路の要衝となるであろう日本列島(とりわけ北海道)を自国の強い影響下に置こうという争い・緊張が生じるとすら考えられます。
このような意味でも、北極海航路の利便性・重要性の向上は、とても気になっています。今後、とりわけ注視していくべき事象であるだろうと思います。
かなた参加者私が気になることは、新型コロナやコロナワクチンについての根拠のない憶測や陰謀論が存在しているということです。
現在、全国で新型コロナワクチンの接種が進んでいるようですが、一方で、ワクチン接種のリスクについての論争も行われています。
ワクチンを打つリスクと打たないリスク(=新型コロナに罹患するリスク、罹患した場合のリスク)のどちらが大きいのか?ということが論点の一つになっているのではないかと思います。勿論、どちらがよりリスクが大きいかということは一概には判断できないでしょう。世代・年齢層や基礎疾患の有無・程度・種類などによって、リスクの差異やリスクの感じ方・捉え方の差異はあると考えた方が良いでしょう。
例えば、罹患したとしても無症状となることが比較的多いとされ、また、ワクチンの副反応(痛みや疲労、頭痛、発熱、稀にアナフィラキシーなど)が出やすいとされる若年層にとっては、ワクチン接種のリスクの方が大きいと捉えるかもしれません。
逆に、罹患した場合の重症化率・致死率が高いとされ、また、若年者よりもワクチンの副反応が出にくいとされる中高年や高齢者にとっては、ワクチンを打たないリスクの方が大きいと捉えるかもしれません。
以上は単純な見方だろうと思います。おそらく実態はもっと複雑でしょう。
しかし、現時点では、新型コロナワクチンをめぐるリスクを評価したり、因果関係を特定・確定したりすることはできないと思います。なぜなら、このワクチンは開発されて間もないものであるし、摂取後のデータもまだ不十分だからです。
にもかかわらず、巷では、ワクチンのリスクや因果関係について様々な流言飛語・憶測・陰謀論が出回っています。「ワクチンが原因で人が亡くなった」。「ワクチンを打つと不妊になってしまう」。「ワクチンは遺伝子を改変する作用がある」。これらは事実かもしれないしそうでないかもしれない。ただ、先述のように、現時点ではその答えを出せない。
現時点では、ワクチンが「良いものであるのか悪いものであるのか」を確定的に断言することはできないはずです。ましてや、専門家ではない(私を含め)大多数の人には余計に分からないはずです。それなのに、根拠のない流言飛語・憶測・陰謀論がSNSやインターネット上を中心に大きな力を持っているように思います。かなた参加者現在はコロナ禍の最中にあり、現在の日本は非常時にあるとみなすことができます。非常時なので国民も政府も適切に行動することは難しいと思います(というか、適切に行動できたかどうかは未来において評価すべきだが)。
とはいえ、現在の日本政府の言動は一定の基準に則っていないように思います。つまり「行き当たりばったり」のように思えるのです。たしかに、先程も言いましたが、現在の日本は非常事態下にあるので、多少、行き当たりばったりになるのは仕方がないでしょう。
臨機応変に対応しているなら良いのですが、現在の日本政府の言動からは、一貫した行動基準の存在を感じられないのです。
強いて言うならば、現在の日本政府が持っている一貫した行動基準は「非難回避」です。昨今の日本政府の言動は、世論からの非難を回避することに主眼を据えているとも思います。
何らかの政策を発表して、それに世論からの非難・批判が集まったら(俗にいう「炎上」の状態になったら)、政策をすぐさま撤回する。これはある種の民主主義の表れなのかもしれませんが、その非難・批判が理性的や合理的なものであるかも分かりません。世論から発された非難・批判の内容を吟味しているのか?ということは気になっています。
勿論、場合にもよりますが(世論からの非難・批判があっても、炎上しても、頑なに撤回しない政策もあると思います)、「炎上したらとりあえず撤回しとけ」的な考え方が透けて見える政策・言動は多いと思います。
ちなみに、私見では、一度決定した大枠(政治の方向性や基本的な目的・ゴール)は、「今更、変えることのできない」”既定路線”として、いくら批判があっても変えることがないという印象です。その大枠を遵守・貫徹するために基準やルールを恣意的に変化させたりするという印象もあります。
また、自分たちと利害を共にする特定の要人の言動に一致するような言動を、政府は後手後手で採っているような気もします。幹事長や官房長官など政界の要人が言ったこと・行ったこと(たとえそれが失言であったり、非難される行動であったとしても)をなぞるように、擁護するように、政府の見解を変化させる。休業要請・時短営業要請下の政治家の会食の件などの際にそのように感じました。
かなた参加者一般人かそうでないかに関わらず、オリンピックの開催に反対していた人でも、競技そのものや選手へ好意的な態度を向けてもよいと私は考えている。
なぜなら、オリンピックの開催をめぐる論争でどのような立場をとったかということと、観戦することや選手への態度がどのようなものであるのかということは別の事柄であると考えるからだ。オリンピック開催以前は、たしかに開催の是非に関して論争があった。その際、開催反対派は主にオリンピック委員会や行政に批判の矛先を向けていたはずだ。なぜなら開催の有無を決定するのは彼らだからだ。選手に批判の矛先を向けていたわけではない。というか、選手に批判の矛先を向けても仕方がない。なぜなら開催の有無を決定するのは彼らではないからだ。彼らはオリンピックに出場するだけなのだ。大会の運営には直接的に関係しない。それゆえに、開催をめぐる論争における立場とオリンピアンに向ける態度の間には直接的な関連が無いと言える。開催反対派の立場をとっていた(とっている)としても、競技そのものや選手に対しても否定的であるわけでは必ずしもない。大会の開催の有無や大会の在り方は、競技に参加するだけの選手とは無関係である。
また、今回の論争においては、あくまで「“コロナ禍という状況下での” 東京オリンピック2020の開催の是非」が主眼であり、「オリンピックという大会そのものの是非」が主眼ではなかったはずであり、東京オリンピック2020に反対することは必ずしもオリンピックという大会そのものを反対することを意味しないし、オリンピックにおける選手の活躍に否定的であることも意味しない。オリンピックに対して好意的な印象を抱いている人でも、コロナ禍という状況下でオリンピックを開催することには否定的であるという人も多いのではないかと思う。このような人が開催反対派に多く含まれていると考えても不思議はない。
結論を改めて提示する。開催に反対していたことと競技そのものや選手へ好意的な態度を向けることの間に矛盾はない。両者は同列の(同じ基準に則っている)問題ではなく、別物の問題である。それゆえに、開催に反対していた議員に対して「一貫性がない」や「ダブル・スタンダードだ」といった反論は妥当ではない。
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