今回のテーマは「”可能性の存在” ではなく “可能性の程度” を見よう」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。
相殺法
水俣市で奇病が発生したとき、熊本大学医学部や市の奇病対策委員会は、病因の解明に血のにじむような努力を重ねなければならなかった。奇病が細菌やウイルスによるものではなく、魚介類の汚染によることがほぼ明らかになってからも、一体何の物質による汚染が病因であるかが、なかなか確定できなかった。それにしても、マンガン、セレン、タリウム、水銀など、新日窒水俣工場の廃水に含まれる物質が候補に挙がり、また疫学的調査からも、工場廃水が原因であることは早くから推定されていた。しかし原因物質がはっきりしないと、水俣湾での漁獲を法律で禁止することができない。そこで「魚を獲ってもよいが、食べないように」という苦しい指導をしている間も、工場の廃水は引き続き流されていた。
このような状況の中で、「新日窒の責任ではない」という学説もいくつか提案された。その一つは日本化学工業協会の報告による「敗戦のときに旧軍隊が水俣湾に捨てた爆薬が原因かもしれない」という珍説である。また東京工大のK教授による「水俣病の原因は工場廃水ではない」「原因は水銀ではなく、アミン系の有毒物質と考えられる」という説もあった。「爆薬説」の方は、素人目にも怪しげであって、企業側の「有耶無耶にしてしまおう」という意図が露骨に感じられる。こんな思いつきの説と、真面目な研究班の苦心の学説とを込みにして、強引に相殺されたのでは、これは詭弁どころか「強弁」と言われても仕方がないであろう。
このような、「……とも考えられる」とか「……かもしれない」という論法は、詭弁的相殺法になりやすいものである。一つや二つ反駁されても、次から次へと新説を並べて有耶無耶にしてしまおうとする作戦なら、それは紛れもない詭弁である。勿論「……とも考えられる」という説が、学問的にも現実性のあるものであれば、それは貴重な反論として真剣に取り上げられなければならない。しかし、ただ論理的・抽象的可能性として「あり得る」だけで、「多分そうだろう」という現実性・蓋然性を無視した説にこだわるのは、本人が主観的にどういうつもりで述べていようと、詭弁と言われても仕方がない。
「爆薬説」はやがて、軍が爆薬を投棄した事実がないことが突き止められて、消え失せた。一方、K教授のアミン説は、素人には難し過ぎて何のことだか分からないし、学問的に一応の決着がつくまでにも、およそ三年の月日がかかった。この説が意図的な詭弁であるかどうか、私には分からないが、もし詭弁だとしたら、最高にして最悪の詭弁であることは間違いない。罹病者をも含む一般大衆の口を封じた点で最高であるし、応急対策を遅れさせた点で、極めて悪質である!
野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p71~p73
「……とも考えられる」「……かもしれない」という論法は、即座に否定できる類の論法ではない。なぜなら、未解決・未解明問題を対象に議論したり調査したりする際には、あらゆる相関関係(因果関係に認定し得る仮説)を考慮する必要があるからだ。何の考慮もなしに、何の議論もなしに特定の説を棄却することは基本的には推奨されないのである。
しかし、それゆえに、他の説明と比べて自然でなかったり現実的でなかったりするトンデモ説も一応はまかり通ってしまうのだ。限りなく妥当可能性がゼロに近いトンデモ説であっても、それが未解決・未解明問題の因果関係である可能性はやはりゼロではないので、妥当可能性の高い他の説と同列に扱われてしまうのだ。
未解決・未解明であったり未知が多分に含まれたりする問題領域においては、未解決で未解明で未知であるがゆえに、多種多様な説が提唱されるものだ。たしかに、多種多様な説が提唱されるという状況・環境は我々人間が問題解決に近づく上で有益であるだろう。
ただ、その「多種多様な説」の中には陰謀論や都市伝説、超自然的な説のような「他の説と比べて、妥当である可能性が限りなく低い説」が含まれることも多い。
陰謀論などは “否定不可能” であるがゆえに、早計に邪険に扱うことはできないのである。というか、そもそも陰謀論は「大多数の民がその真偽を知ることができない」説であり、肯定的にも否定的にも扱えない説であるので、「陰謀論」と呼称することの是非も判断しにくい。
ただし、妥当な説と陰謀論の間には決定的な違いがある。可能性の程度に違いがあるのだ。
妥当な説も「他の説と比べて妥当である可能性が限りなく低い説」も、どちらも未解決・未解明問題の因果関係である可能性はあるので、同列に扱われる。先程、このように述べたが、ここで考えてみてほしい。
答えである可能性が80%の仮説と2%の仮説があるとしよう。この場合、あなたはどちらの仮説に重点を置いて問題を考えるだろうか?どちらの仮説の検証により多くの時間や労力を割くだろうか?
勿論、前者の仮説のはずだ。何らかの問題の答えを導き出そうとするとき、可能性の高い仮説から検証作業を行うはずだ。「可能性の高い仮説から検証することで、より早く答えに辿り着ける」と考えるのが合理的であるだろうし、そのような考えに立脚して、数ある仮説に優先順位を設けるのが効率的であるだろう。
我々人間はどうしても “可能性が存在する” ことをもってあらゆる説を同列に扱ってしまう。たしかに、どのような説にも(答えとして妥当であるという)可能性は存在するし、それゆえに、どのような説も早計に邪険に扱うわけにはいかない。このような考え方にも一理ある。ただ、陰謀論がこのような考え方の中に巣食うこともまたたしかである。
可能性を全否定することはとても難しい。いや、可能性を全否定することは不可能かもしれない(矛盾した言い回しだが)。何物にも何事にも可能性はある。僅かだとしても可能性はある。陰謀論が真実である可能性だって勿論ある。このような否定不可能性につけこむのが、「否定できない=真実である」という誤った図式に則る陰謀論なのである。
しかし、真実である可能性があるからといって、真実である可能性を否定できないからといって、「真実であること」が確定するわけではない。真実である可能性があるからといって、その可能性の内実を見ずに、他の可能性との比較もせずに、他のどの説にも先駆けて真っ先に検証しようとする道理はない。他のどの説よりも高い優先度を付与する道理はない。
やはり「可能性の程度を考慮しなければならない」のである。
我々人間は万能ではない。時間や体力にも限りがある。特定の問題について考えられる仮説の数々を一つ一つやみくもにしらみつぶしに検証しているわけにはいかないのである。特に、地球温暖化や資源枯渇問題や飢餓問題や人権侵害問題といった早急な解決が望まれる問題を我々は抱えている。解決策を模索するための議論の最中でさえも問題は容赦なく悪化し、それによって人は苦しんでいる。問題は我々を待ってはくれないのだ。
となれば、“可能性の程度” に応じて説の数々に優先順位を設けるべきなのだ。そして、可能性の高いものから検証していき、僅かでも早く問題を解決しようとするべきなのだ。
「可能性の存在」をもって説の数々を同列に扱うのではなく、「可能性の程度」に応じて説の数々に優先順位を設ける。このことを忘れてはならない。
勿論、注意すべきこともある。上記引用内で述べられていた「水俣病のアミン原因説」が良い例であるが、この世には「(難解な専門用語・概念によって構成される)素人には難し過ぎて何のことだか分からない説」がたくさんある。
大多数の人は素人であり、専門家も特定の一分野の専門家であるに過ぎず、他の分野に関しては素人である。万物に通じた専門家などこの世にはいない。我々は個人ではほとんど何も知らないのである。我々は個人ではほとんど何も知ることができないのである。
大多数の人は、「素人には難し過ぎて何のことだか分からない説」が一体どれほどの妥当可能性を有しているのか判断できない。それゆえに、その説の優先順位をどうするかも判断できない。これをいいことに、実際には妥当可能性が低いにもかかわらず、分不相応の高い優先順位を付与されている説も存在する。
では、「素人には難し過ぎて何のことだか分からない説」に対してはどのような態度をとればよいのだろうか?
難解な専門用語による権威付けに惑わされず、分からないと言って思考を放棄せず、肯定・否定の判断を早計に行わず、その説に関する専門用語・概念についてできる限り調べて学んで、複数の専門家の見解を知り、その上で粘り強く中立的な態度をとるべきだろう。
問題の解決や改善は、専門家の知識や経験をもってしても一朝一夕ではいかないのだ。ましてや我々素人が一朝一夕で問題の結論や解決策を確定させることなどできるわけがない。そんな我々素人がせめてできることといえば、その問題や説についての理解を深め、問題解決へ僅かでも近づくことを目指して議論していくことくらいだ。
しかし、その「せめて我々素人にできること」が大事なのである。先程も述べたが、大多数の人が素人である。素人は大勢いるのだ。大勢という数の力は社会的にとても重要である。
特定の問題に関する専門家でなくとも、大勢の素人がしっかり問題や説について調べて学んで議論していくことは専門家の研究に匹敵、いやそれ以上に問題解決に寄与する。いや、そのような大勢の素人の理解や努力があってこそ専門家の研究が活きてくるのだ。
専門家だけで問題は解決できない。政治家だけでも問題は解決できない。官僚だけでも問題は解決できない。経営者だけでも問題は解決できない。この世には唯一絶対的なヒーローやヒロインはいない。大勢の人が自らの意思や努力をもって理解や知を醸成しなければ、どのような問題も解決しない。
分からないことがあるのであれば、まず分かろうとするべきだ。その上で早計な結論断定を避ける。そして中立的な態度を心掛ける。
中立的な態度は無関心を意味しない。ましてや丹念に調べて必死に学んだ末の中立的な態度は無関心であるはずがない。むしろ、特に未解決・未解明問題においては、丹念に調べて必死に学べば中立的な態度にならざるを得ないと(個人的には)思う。
多くの人ができる限り中立的な態度をとる方が、議論は進むのではなかろうか。それゆえ、結果的に、早く問題が解決・改善されるのではなかろうか。説の相違が妥協なきイデオロギー対立に堕してしまうくらいなら、中立的な立場において、問題解決という目的を見据えながら各説を冷静に客観的に評価できる方が良い。
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