今回のテーマは「『なぜなに期』のすゝめ」である。例によって今回も引用から話を始める。なお、分かりやすくするために一部の内容を抽象的・広範な概念に置き換えています。
本物の論証には時間も手間もかかる。根拠を整理したり、自分の結論と具体的な根拠の釣り合いをとったり、反対意見を考慮したり、様々なスキルを習得することが必要になる。大人の分別を身につけ、自分の要望や意見はひとまず置いて、実際に考えなければならない。
ある制度は現在でもまだ良い考えだろうか。さらに言えば、過去においても良い考えだったろうか。だとしたら、その根拠は?
ある信念を持っているのはなぜか?どんな論証があるのか?幾通りもの答えに根拠が与えられる。それらの根拠を学ぶだけでなく、それぞれの答えを評価し、自分自身でさらに探究する方法を学ぶのが理想である。
手間暇かけて論証の練習をすることはそれ自体が魅力的な行為なのだ。心がより柔軟になり、制約から自由になり、鋭敏になる。論理的思考がどれほどの成果をもたらすかを評価するようになる。日常生活から政治、科学、哲学、ひいては宗教に至るまで、論証は常に考えを促すために提供され、私たち自身も論証を使って自らの考えを提供している。論証とは、そうした言葉のやり取りの中で自分自身の立場を示すための一手段だと考えよう。
(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p16~p17)
この本の言う「本物の論証」とは時間も手間もかかるものなのだ。おそらく、現在なされている議論が本物ではなく「偽物」や「不完全なもの」であるということを遠回しに言っているのだろう。
たしかに、時間も手間もかかっていないと見受けられる主張は数多い。現状の我々は果たして、持論を裏付けるために根拠を用意したり、その根拠と結論とのバランスを考慮したり、持論に対して呈されると予想できる反対意見や実際に呈された反対意見について吟味しながら持論を補強・修正したりしているだろうか?自分に問いかけてみてほしい。
これらのことをしっかりと行うのは難しいと感じるだろう。無理もない。だって議論は難しいのだから。議論は世間話でも雑談でもない。議論の核心たる論証とは「日常生活から政治、科学、哲学、ひいては宗教に至るまで」、「常に考えを促すために提供され」、「言葉のやり取りの中で自分自身の立場を示すための一手段」なのだ。難しいに決まっている。
議論は5W1Hの問いの積み重ねである。5W1Hとは、Why(なぜ)、Who(誰が)、What(何を)、When(いつ)、Where(どこで)、How(どのようにして)の総称である。議論においては常に疑問を持ち続け、問い続けなければならない。特に、「なぜ」という疑問は重要である。
子供には「なぜなに期」という期間があるらしい。お子さんがいらっしゃる方は心当たりがあるかもしれない。小学館の幼児教室ドラキッズによれば、なぜなに期とは「2歳前後にやってくると言われるイヤイヤ期が過ぎて、お子さまの話す言葉がだんだん文章になってくる頃から6歳頃にかけて、何でも不思議に思え、質問が増えてくる」(「なぜなぜ期」は子どもの思考力を育むチャンスの時期|ドラキッズ『まなびドア』|幼児のいるママ・パパのための子育てや教育情報を発信|小学館の幼児教室 ドラキッズ (shopro.co.jp))時期であり、「『なんで?』『どうして?』と大人を質問攻め」(引用元は同上)にするのだと言う。
議論に参加する上でベストな態度・姿勢は「なぜなに期」のようなものではないかと思う。子供のなぜなに期は往々にして周囲の大人を困らせるため、あまり良いものとして捉えられることがないかもしれない。何に対しても「なんで?」「どうして?」と疑問を持つことはいかにも子供っぽいと感じられるかもしれない。しかし、議論の際には大人も「なぜなに期」に戻って欲しい(できれば議論以外の場でも常に「なぜなに期」であることが望ましいが)。
年齢を重ねるにつれて人は考えなくなっていく。あらゆる物事にいちいち疑問を抱いていては社会生活が難しくなるから、人は「考えないようにする」という省エネの術を体得していくのだ。
「考えないようにする」という省エネにも社会生活上の存在意義はあるのだが、一方で社会や議論に与える副作用は甚大である。深く考えないようにしたり楽な考え方に流されたりしてしまえば、単純化にばかり頼るようになって、複雑な世界を複雑なまま正しく捉えることができない。
勿論、単純化にも社会生活上の存在意義はあるのだが、単純化は世界が複雑であるということを忘れさせる。また、深く考えないことや楽な考え方に流されること、単純化に頼り過ぎることは往々にしてレッテル貼りや偏見という形をとって他者理解をも阻害する。
「考えないようにする」という圧力・誘惑は誰にでもある。勿論、私も例外ではない。しかし、この圧力・誘惑を打ち破る魔法の言葉がある。それこそが「なんで?」「どうして?」なのだ。粘り強く疑問を持ち続けることはたしかに難しいし、何より疲れる。ただ、持論にも他者の論にも、ひいては常識にも常に疑いの目を向け、しつこく「なんで?」「どうして?」と問うことは、論証に携わる者の「心がより柔軟になり、制約から自由になり、鋭敏」になることと「論理的思考がどれほどの成果をもたらすかを評価するようになる」ことを助ける。こうして生まれた手間暇かけた論証は、より良い議論とより良い世界を実現するはずだ。
「なぜなに期」の子供のように、あらゆる物事に疑問を持ち続けよう。答えらしきものが提示されたとしても、簡単に早々に納得しないようにしよう。「なんで?」「どうして?」という問いには終わりがない。この問いはいつまでもどこまでも続いていく。真実や真理といった明確で絶対的な答えに辿り着くことはない。だって、そんなものは無いのだから。全ては相対的なのだ。我々は無い答えを探すのではなく、人々の間の妥協点を探るのである。
今回はここまでだ。今回の内容で覚えておいてほしいことは「考えないようにすることや楽な考え方に流れるという圧力・誘惑に打ち勝つために、あらゆる物事に対して、子供のように『なんで?』『どうして?』と問おう。粘り強く疑問を持ち続け、答えらしきものを提示されたとしても簡単に早々に納得しないようにしよう」ということだ。
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