今回のテーマは「代表的な確率か否かを吟味する」である。引用から話を始めていこう。
ルール9:裏付けとなる確率は極めて重要
自分が一流の射手だと証明するには、中心を射抜いてある的を相手に見せるだけでは十分ではない。まず間違いなく、「で、何回失敗したの?」と訊かれるだろう。一発で中心を射抜くのは、何回も射てようやく射抜くのとは全く異なる。さらなるデータが必要だ。
当たる確率が20分の1あるいは30分の1の予測は信頼できるとはいえない。ただのまぐれ当たりに過ぎない。ドラマチックな成功というのもあるにはあるだろうが、そういう確率はとても低い。数少ない例に基づく論証の信頼性を評価するには、背景となる全体数の中での「命中」数の割合を知らなければならない。またしても代表的か否かの問題だ。それ以外の例はないのか?その割合は高いのか低いのか?
このルールは幅広く適用できる。最近では、多くの人々が日常生活において犯罪に巻き込まれる恐怖を感じているし、サメに襲われたりテロの犠牲になったりという劇的な話を耳にするのも珍しくない。勿論、そうした事件や事故は恐ろしいが、それらが現実に特定の個人の身に降りかかる確率はー例えばサメに襲われる確率はー極めて低い。そして、犯罪の発生率は下がり続けている。
メディアが犯罪やテロの恐ろしい事例をしばしば伝えるせいで、例外にばかり目が行ってしまうのは疑いようがない事実だ。だが、だからといって、そうした事例が代表的だとは言えない。
(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p44~p46 )
自分が一流の射手であると証明するためには、まず「命中率」を提示しなければならない。そして「命中率」を提示するのだから、全部で何回射たのか?そのうち何回成功したのか?ということをも提示しなければならない。
たしかに、これは「代表的か否かの問題だ」。自分が一流の射手であることを証明したいのだから、この場合は、的の中心を射抜く確率が代表的であるか否かという問題である。もしその確率が代表的であるのなら、一流の射手であると言うことができる。
引用においては「20分の1あるいは30分の1の予測は信頼できるとはいえない」「ただのまぐれ当たりに過ぎない」と述べられている。例えば、20回中1回命中あるいは1回も命中しなかった場合の「1回命中」は代表的ではないのだ。なぜなら、20回のうち1回だけ的の中心を射抜いたことをもって「一流の射手である」と言うのは明らかに無理のある話だからだ。20回中1回の命中は「まぐれ」であると判断する方が適切だろう。今は分かりやすいように極端な例を用いたが、代表的か否かという判断はこのような仕組みになっているのである。
ただ、「20分の1」や「30分の1」という命中確率は、通常の条件で一流の射手であると名乗るには無理のある乏しい確率であるというだけで、別の異なる場合・背景・条件においてはその意味合いも変わってくる。例えば、動く的を綱渡りしながら射抜こうとする場合(そんなことをする人はいないとは思うが)における「20分の1」「30分の1」という命中率は、通常の条件で一流の射手であると証明する場合よりも、おそらく高評価されるだろう。的を射ることの難易度が変化すれば、確率の意味合いも変化する。
また、「20分の1」や「30分の1」という確率が、もし宝くじの当選確率だったらかなりの期待を持てるだろうし、もし隕石が地表に衝突する確率だったら最後の晩餐の献立を考えておくべきだろう。
当然のことながら、確率それ自体を見ただけでは高いか低いか判断することはできない。論を裏付けるために確率を用いる際や何らかの確率を提示された際には、それはどのような場合・背景・条件において誰に何が起こる(or起こらない)確率なのか?ということを考慮に入れなければならない。
犯罪に遭ったり、サメに喰われたりする確率は勿論ゼロではないし、これらを怖がる気持ちは理解できる。しかし、これらの悲劇が実際に他の誰でもなく「自分」に降りかかる確率はおそらく体感確率ほど高くはない。ここで言う「体感確率」とは、「特定の出来事が起こるという主観的な予測(統計によって表されるものではない)」であると思ってほしい。
引用内の話はおそらくアメリカの状況を念頭に置いて書かれている。とはいえ、日本においても「メディアが犯罪やテロの恐ろしい事例をしばしば伝えるせいで、例外にばかり目が行ってしまうのは疑いようがない事実」であるだろうと思う。
たしかに、日々、例外的で悲観的なニュースを見ていては体感治安も悪化するだろう。ただ、これは仕方のない話だ。犯罪に関するニュースを取り上げないと番組の尺が埋まらないし、とある犯罪に関するニュースは特定の地域の人にとっては関心のあるものなのかもしれない。「だからといって、そうした事例が代表的だとは言えない」。このことは肝に銘じておくべきだろう。
今回はここまでだ。今回覚えておいてほしいのは「論を裏付けるために確率を用いる際には、それはどのような場合・背景・条件において誰に何が起こる(or起こらない)確率なのか?ということを考慮に入れた上で、提示する確率が代表的であるか否かを判断するべきだ。また、体感確率ではなく、提示された例が代表的であるか否かという物差しをもって判断しよう」ということだ。
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