今回のテーマは「数字や統計には批判的であれ」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用の文言を少々改変している。
ルール10:統計の数字には批判的な視点が必要
「数字で何かを証明する」ことはできない!論証に数字が使われているというだけで、それが優れた論証だと判断する人がいる。統計は権威や明確さというオーラを帯びているらしい。だが、実際には、数字は他の種類の証拠と同じく、批判的に検討する脳のスイッチをオフにしてはいけない!
論証が割合やパーセンテージを提示するとき、関連する背景情報として例の数値を含めなければならない。大学のキャンパスで車の盗難が二倍になったと言うとき、一台から二台になっただけなら、それほど心配する必要はないだろう。
過度の正確さもまた、統計の落とし穴の一つだ。「毎年、このキャンパスでは紙製やプラスチック製のカップが41万2067個も捨てられる。今こそ再利用可能なカップを使うべきだ」。捨てられるカップの数を正確に知っている者などいない。しかも、毎年きっちり同じ数だけ捨てられることなどありえない。これは数字を証拠にして現実以上の権威をつけている例だ。
数字は極めて簡単に操作され得る点にも注意すべきだ。世論調査員は、質問の仕方によって答えが変化することをよく知っている。最近では、例えば選挙でどの候補に投票するかについて、誘導的な質問で人々の考えを変えさせようとする「世論調査」まである(「もし彼女が嘘をついていると判明したら、あなたは違う候補に投票しますか?」といったような質問が例に挙げられるだろう)。さらに、見るからに「正確な統計」が実は当てずっぽうや外挿(既知の資料から未知のことを推測・予測すること)に基づいているというのはよくある話だ。薬物使用や闇取引や不法外国人の雇用といったような事柄については、明らかにしないあるいは公言しないというのは非常によくあることで、それらがいかに広範囲に広がっているかに関して自信たっぷりに一般化している場合は注意すべきだ。
「もし子供たちがテレビを観る時間が今のペースで増加すれば、2025年には眠る時間がなくなってしまう!」。たしかにそうだが、そうすると2040年には一日に36時間もテレビを観る計算になってしまう。こうしたケースで既知のデータを基にした予測は数字上では可能だが、限度を越えれば何の意味もなくなってしまう。
(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p47~p50 )
たしかに、「数字(自体)で何かを証明する」ことはできない。「数字は真実を語る」とはよく言われるものの、数字自体は真実を語らないし、必ずしも真実を語るわけでもない。勿論、数字を用いることで補強される論証というのもたくさんある。しかし、数字を用いることで「補強されたように見せかける」論証というのもたくさんある。引用にある通り、過度に正確な数値を証拠として「現実以上の権威をつけている」ということもある。それっぽい数字を用いてそれっぽい論証を提示しようとする者は多くいるのだ。
つまり、論証に数字が用いられているからといって無批判に早急にその論証を正しいものであると判断しないようにしよう。むしろ、論証に数字が出てきたときにはその数字を「他の種類の証拠と同じく、批判的に検討する必要がある」。思考停止しないようにしよう。
ここで、『論証のルールブック』に分かりやすい例とその説明が掲載されていたので紹介する。なお、分かりやすくするために引用の文言を少々改変している。
かつて、強いスポーツチームを売り物にしている大学のなかには、選手として使い物にならなくなった学生を成績不良で退学させてしまうと非難された大学もあった。だがそれは過去の話で、今では運動選手たちもきちんと卒業する割合が高くなっている。多くの大学で、彼らが卒業する率は50%以上だ。
第一に、「多く」の大学で運動部員の50%以上が卒業するということは、そうではない大学もあるということだ。したがって、この数字は運動選手を使い捨てにするような大学にはあてはまらないのだろう。だが、そもそも問題とされるのはそんな大学なのだ。
また、「卒業する率が50%以上」というのは、各大学の全体の卒業率と比べてどうなのかを知る必要があるだろう。一般の学生と比較して著しく低いのなら、運動部員は未だひどい扱いを受けていることになる。
最も問題なのは、この論証が、運動部員たちの卒業率が以前と比較して実際に向上していることを裏付ける根拠を提示していない点だ。運動部員の大学卒業率はかつて非常に低かったという印象に基づいた主張なのだろうが、過去の数字を提示しなければ、向上したと断言するのは許されない。
(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p47~p48 )
この場合、「50%」という数字に対して批判的になる必要がある。詳しくは引用内容の通りだが、ここで何が述べられているかというと、「50%」とは何を示した確率なのか?と考えなければならないということだ。具体的には、このときの全体とは一体何であるのか?その全体のうちの何が確率として表されているのか?ということを問わねばならない。引用の例の場合は、全体は「多くの大学」であり、その全体のうちの「運動部員の卒業者(卒業率)」である。50%とは、「多くの大学」における「運動部員の卒業者」の確率である。このように考えてみると、「多くの大学」以外の大学が考慮の外に置かれていることが分かりやすい。
そもそも「多くの大学」というのは非常に曖昧な母数である。一体どの大学と、どの大学と、どの大学……が「多く」の内に含まれているのか?このことについて全く説明がない。加えて、引用内にある通り、運動部員と一般学生との卒業率の比較や運動部員の過去と現在の卒業率の比較が示されていないのは大いに問題である。比較対象や背景が分からなければ、ある数値の多寡は判断できないし、ある数値が上昇傾向にあるか下降傾向あるかは判断できない。
ならば、我々が論を提示する際にもそのような点に注意を払わなければならない。このことが、最初に提示した「ルール10」の引用において述べられている。「論証が割合やパーセンテージを提示するとき、関連する背景情報として例の数値を含めなければならない」という箇所がそうだ。割合や確率などの数値を提示する際には、その数値の背景や比較対象をも提示する必要がある。そうしないと、その数値の多寡も変動の傾向も理解できない。「数字(自体)で何かを証明する」ことは不可能なのだから。
「車の盗難が二倍になったと言うとき、一台から二台になっただけなら、それほど心配する必要はないだろう」。なぜ心配する必要が無いのか?それは、「二倍」という数値に「一台から二台になった」という背景が付属していて、二倍といえども「自分の車が盗難される確率」はそれほど高まってはいないと判断できるからだ。1から2になったときの2倍、20から40になったときの2倍、50から100になったときの2倍、600が1200になったときの2倍は、それぞれで異なる意味を持つ2倍なのだ。同じ意味を持つ2倍ではないのだ。
「数字は極めて簡単に操作され得る点にも注意すべきだ」。先述の通り、数字は真実を必ずしも語らない。それどころか、数字や統計はしばしば誤った理解・印象をもたらす。引用内では世論調査における誘導の例が挙げられているが、誘導が跋扈しているのは世論調査の領域だけではないのだ。授業や会議や議論をはじめ、テレビやインターネットやSNSで行われる投票機能においても誘導行為は広く見受けられる。誘導とは詭弁・誤謬の一つであり、「結論ありき」の議論や調査の際に議論参加者や被調査者を、(意識的か無意識的かを問わず)あらかじめ念頭に置かれた望ましいとされる結論に導いていくような問題設定(フレーミング)や調査手法・回答手法のことである。そのように理解していただきたい。
また、「見るからに『正確な』統計が実は当てずっぽうや外挿(既知の資料から未知のことを推測・予測すること)に基づいているというのはよくある話だ」。引用内の「子供たちがテレビを観る時間の予測」の例は端的だ。計算自体は合っているのだが、その計算によって導出された答え・結論が現実的ではない。そもそも睡眠時間をゼロにしてまでテレビを観ようとする人は多くはないだろうし、テレビの視聴時間が一定ペースで増加する類のものであるという前提にも疑問符が付される。
論証の際には根拠が必要となるが、その根拠として統計を用いる機会は多い。その際には統計自体の正確さについても吟味しなければならない。決して無批判に早急に統計の正確さを断定してはならない。統計の全てが意図的に操作されたものではないだろうが、多かれ少なかれ専門家も誤った統計を行うことがあるのだ。自らの論証に統計を用いることには慎重になるべきだ。
ちなみに、「外挿(既知の資料から未知のことを推測・予測すること)」には特に細心の注意を払ってほしい。妥当な推測・予測に基づいた外挿は存在するだろうから外挿の全てが一概に誤りであるとは言えないが、外挿は誤ったものになりやすい。なぜなら、推測や予測は難しいからだ。しかも、往々にして推測や予測はバイアスを含み、「(自分が)そうであってほしいと願うもの」「(自分にとって望ましい)結論ありきのもの」になりやすい。たとえそのような意図がなくとも、往々にして人間は自らの推測・予測に希望や期待を含ませる。なので、外挿、ひいては推測や予測には細心の注意を払うべきだ。
最後に、「薬物使用や闇取引や不法外国人の雇用といったような」 明るみに出ない事柄を論じることについて触れておこう。このような事柄は公式なデータになりにくいものであり、それゆえに、そのような事柄に関わっていない大多数の人は薬物使用や闇取引の詳しい事情など知る由もないし、それらについて知る手段は極めて乏しい。なので、明るみに出ない事柄について断言的に主張するのは極めて困難であり、その主張の正誤については判断できない。
陰謀論にも同じことが言えるだろう。9.11同時多発テロ事件や(最近で言えば)新型コロナワクチンの「明るみに出ない」秘密については誰も白日の下に晒さないし(秘密なのだから)、それゆえ我々大多数の庶民は知る由もない。なので、基本的には陰謀論の正誤については判断できない。にもかかわらず、「真実である」だとか「間違っている」だとか言っている人がいる。彼らは、明るみに出ない秘密を知っている高地位のお偉いさんなのかもしれないが、大多数の人は秘密の存在や内容については知ることができない(秘密なのだから)。我々大多数の人は陰謀論に対しては「事実かもしれないし、そうではないかもしれない」という中立的な立場を採ろう。
今回はここまでだ。今回覚えてほしいのは「数字(自体)で何かを証明することはできない。数字や統計は容易に操作できるものであり、それらによって誤った理解や印象を植え付けられたり、『結論ありき』の議論に誘導されたりしてはならない。数字や統計を提示したり見たりする際には、それらの背景や比較対象を必ず吟味しなければならない。無批判に早急に数字や統計を信用してはならない。また、裏社会事情や陰謀論など明るみに出ない事柄に対しては”正誤不明・中立”という立場を採ろう」ということだ。
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