「はい、論破」という空虚な一人遊び【論理破綻を強気で隠す者】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「論理破綻を強気で隠す者」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

強弁補強術

 相殺法は元々、無理な帳消しをやろうというので、やっている本人も薄々(あるいは明白に)無理を悟っていることがある。そこで弱気になるようでは無理が引っ込み、道理が通ってしまうから、各種の補強術が援用される。権威を振りかざすこと、大声をあげること、立て板に水としゃべりまくること、等々である。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p52

 権威を振りかざしてきたり、大声でがなり立ててきたり、相手に反論する隙さえ与えまいとベラベラまくし立ててきたり……という者はあなたの身の回りにいるだろうか?彼らはあえて強気でいるのかもしれない。めちゃくちゃな言い分で自分の要求・要望を無理矢理通そうとしてきたり、自分の非を認めようとしなかったりする者は弱気ではいられない。強弁や詭弁を振り回す際には迫力や押しが不可欠である。なぜなら、論理や道理から外れていることを迫力や押しの強さによって誤魔化さなくてはならないからだ。

 というか、そのように言うまでもなく、権威を振りかざしてきたり、大声でがなり立ててきたり、反論の隙を与えまいとベラベラまくし立ててくるような輩は往々にして強気な人間である。自分の非や誤りを認めようとしない人間は強気になるしかない。しかし、あくまで「強気」である。実際に「強い」わけではない。「強い」わけではないからこそ「強気」を装うのだ。

 考えてみてほしい。自分の非や誤りを認めようとしない人間や自分の要求や欲求を叶えるための論理作成を避ける人間が強い人間であるとみなせるだろうか?むしろそのような人間は「弱い」。自分の正しさを妄信し自分の正しさという虚妄が覆されることに耐えられない人間や論理的であることの手間暇を惜しむ人間は、人に迷惑をかけながら楽をして自分のアイデンティティを維持しようとしているだけの「弱い」人間である。

 自分のアイデンティティを維持するために議論しようとする者は多い。彼らの議論は適切な議論ではない。「はい論破!」と自分勝手に一方的に勝鬨を上げるだけの空虚な一人遊びだ。論理を用いて相手に勝ったという妄想に浸りながら、その実、詭弁や強弁によって他者を困らせたり不快にさせたりしているだけなのだ。そのことに気付けないし、気付きたくもない。こういう者が僅かにいるだけで議論は崩壊してしまう。

 言わずもがな、議論は自分のアイデンティティを調達・維持するための場所ではない。レスバトルをして悦に浸るための場所ではないのだ。議論する際に強気になる必要はない。議論はあくまで「みんなで特定の問題や事象についての理解を深め、妥協点や最適解を探るための場所」である。そこを履き違えないで頂きたい。

 不必要なまでに強気な人を見かけたら「何か都合悪いことを隠しているな?」と疑ってみるとよい。これは人間関係一般における経験則ではあるのだが、議論という場においても妥当性のある経験則である。不必要なまでに強気な論者を見かけたら「論理破綻を隠しているな?」と疑ってみるとよい。議論する際には常に疑心暗鬼であれ、と言いたいのではない。強気になる必要のない議論の場においてあえて強気に振る舞っている者は詭弁・強弁使いである可能性が高いということを言いたいのだ。

 しかし、議論の機会は、適切に真摯に謙虚に本気で議論しようとしている人間全員に開かれている。つまり、詭弁や強弁を振り回している者でも改心しさえすれば適切な議論に参加できる。ここで言う「改心」とは、適切に真摯に謙虚に本気で議論することを心掛け、詭弁や強弁を用いることをやめて、誤謬を減らしていくために議論や論証の勉強・経験を積むことをやめず、勝負なき議論や「みんなで特定の問題や事象についての理解を深め、妥協点や最適解を探るための場所」としての議論を構築していこうとすることである。議論に参加するための要件は他にもあるのだろうが、基本的な要件はそんな感じである。

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