今回のテーマは「『拳で勝つ世界』から『口で勝つ世界』へ」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に若干の変更を加えている。
強弁術の誕生
権力と強弁
動物の世界には、強弁というものはない。強い者が勝ち、大きな魚が小さな魚を食う。人間の世界でも、遠い昔はそうであった。ところが社会制度が次第に複雑になり、権利とか義務などがやかましくなってくると、強弁・詭弁が生まれてくる。
想像に任せて物語ることをお許しいただけるなら(これも強弁?)、最初に強弁をふるったのはやはり昔の権力者であろう。「泣く子と地頭には勝てぬ」の言葉通り、権力者が何かを言い出したが最後、無理が通って道理が引っ込むのが相場であった。
権力者にはさらに、法律と伝説に対する絶大な力がある。年貢の高がどのように決められたのか、領民にはさっぱり分からなかったに違いないが、とにかく決められてしまえば、従わざるを得ない。現在でも、所得税の計算法がどのようにして決められたのか、私にはさっぱり分からないけれども、計算して出てきた数字だけは払わないと、面倒なことになることはよく分かっている。
野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p18~
弱肉強食や「万人の万人に対する闘争」の時代には、詭弁や強弁は不要であった。不要、というか存在しなかったはずだ。なぜなら、「口で勝つ」必要がないからである。当時は、詭弁や強弁を使ってわざわざ回りくどく「口で勝つ」よりも「拳で勝つ」方が遥かに簡単である。拳で勝とうとするのが当時の常識だったはずだ。しかし、何百年も何千年も何万年も時を経る中で人類は権利や義務といった観念を生み出し、「暴力は規制されるべきものである」という認識も次第に普及・拡大してきている。それが奏功して、現在、暴力は「犯罪」「悪」「してはならないこと」であると広くみなされている。
しかし、ヒトという種が暴力を振るうことには変わりない。人は本能的に暴力的である。暴力は犯罪や悪いことであると一応はみなされてはいるものの、なくなることはない。ただし、暴力を禁じる憲法や法律、規範、文化などの “ルール” に違反すると公的あるいは私的な罰を受けるので、暴力以外の手段で相手に勝ったり優越したりする必要がある。このような状況に置かれてはじめて、「口で勝つ」という選択肢が選好されるようになったのではないか。
暴力を減らすことが人類の進歩であるならば、「口で勝つ」ために詭弁を弄したり強弁を振るったりすることは、ある意味で進歩の一つの表れなのかもしれない。詭弁も強弁も人を肉体的に傷つけることはない。詭弁も強弁も直接的には人殺しの凶器とならない。しかし、詭弁と強弁が人にも社会にも多大な害を与えること確かである。詭弁と強弁を含め言葉そのものが人を精神的に傷つける作用を有しているし、詭弁と強弁が事実や論理を歪ませて人々を暴力的な方向に導いてしまうこともあるだろう。詭弁と強弁は肉体的な暴力ではないが、精神的・社会的な暴力になり得る。
つまり、肉体的な暴力を規制しようとしたものの、それとは別の異なる形態の暴力(言葉を用いる暴力、言葉を介した暴力)が台頭したというわけだ。「拳で勝とうとする世界」から「口で勝とうとする世界」になったのだ。いや、拳による暴力は撲滅されていないし撲滅される見込みもないので、「拳で勝とうとする」世界から「拳でも口でも勝とうとする」世界になったという方が適切かもしれない。
「泣く子と地頭には勝てぬ」とは、「聞き分けのない子や横暴な地頭とは、道理で争っても勝ち目はない。道理の通じない相手には、黙って従うしかない」(泣く子と地頭には勝てぬとは – Weblio辞書)ということを表現することわざである。(そもそもギロンバは勝敗の存在しない議論を提唱してはいるのだが)「口で勝つ」というのは、信頼性のある情報に依拠して合理的・論理的に論証することをもって議論に勝つというわけではなく、単に相手を「言いくるめる」ということだ。そこに信頼性のある情報や論理は必要ない。そこに道理は通用しない。信頼性のある情報のように見せかけ論理的なように見せかけることさえできれば、「口で勝ったように見せかける」ことができるのだ。このような意味で、「口で勝つ」=「口で勝ったように見せかける」と捉えてもらっても構わないとさえ思う。
たしかに、私を含めほとんどの人は所得税がどのように設定・決定されているのかを知らない。我々は、難しそうな言葉や立派っぽい言葉や横文字を多用する政治家の言葉に安易に納得したり、国や会社など上からの要請を無批判に受諾したりする。難しそうな言葉や堅苦しい言葉がたくさん並んでいる契約書に何も考えずに判を押してしまう。これはある種の「強弁」である。かといって、強弁を振るう側だけに問題があるわけではない。強弁に説得されたり、お上の強弁を甘んじて受け入れたりする側にも問題はある。
一応言っておくが、別に私は「いじめられる方にも問題がある」ということを言いたいのではない(学校でいじめられていた私はそのように思わない)。
強弁を振るう側は間違いなく問題含みである。だが、そちらの側には“ 権力・権威” がある。一方、強弁を振るわれる側には “権力・権威” がない。この差は重大である。「口で勝つ」とは言うものの、現実世界において最重要の地位にあるのは「誰の口が語ったか」ということである。何を言ったかではなく、誰が言ったか。これが世間の現状である。このような現状の中で「(国や会社や教師などの)お上の口が語ったこと」は “勝ちやすい” 。
つまり、強弁を振るわれる大多数の人々は非常に不利なのだ。そんな不利な状況に置かれる大多数の人々が最もやってはならないこと、それは「思考停止」である。これこそが強弁を振るわれる側の最大の問題点である。
詭弁を弄したり強弁を振るったりする権力・権威にとって、「思考停止」状態の大衆ほど都合の良いものはない。ただ、裏を返せば、強弁と詭弁の最大の敵は「思考」「熟慮」「疑いの目」であると言える。我々は強弁と詭弁に対応するために、「思考」し「熟慮」すること心掛け、権利・権威に常に「疑いの目」を向けるべきなのだ。
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