泣く子と地頭と寅さんと伝説に論理は通じない【伝説と死刑と非国民】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「泣く子と地頭と寅さんと伝説に論理は通じない」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に若干の変更を加えている。

伝説の効用

 伝説もまた、権力者の有益な道具であった。古代の多くの帝国で、皇帝は神あるいは神の子とされていたし、それが従順な人々の忠誠心を養うのに役立っていた。エジプトやインカ帝国の皇帝は「太陽神の子」とされていたし、中国でも伝説の帝王はみな超能力(神仙術など)を与えられている。

 伝説の持つ拘束力は、時代や土地柄によってまちまちであるが、勝手な言説を唱える者は、死刑を含む公的処罰を受ける場合もあるし、村八分ないし「つまはじき」という、いわば「私的」処罰もあり得る。戦時中に天皇が「神でない」などと言ったりしたら、公的・私的両方の処罰を覚悟しなければならなかった。このような効果があるから、昔の偉い王様たちはいわゆる「正史」の編纂に熱心だったわけである。

 現代では流石に神を名乗る政治家はいなくなったが、英雄伝説や「我らの○○」という「国民の声」を演出する大小の名人はいるようである。たとえばヒトラーなどは、その道の大名人であったと言えよう。

 ヒトラーは「最後まで非常に多くのドイツ人に崇拝されていた」と言われる。彼は卓越した演説の才能の持ち主で、第一次大戦に敗北して意気消沈するドイツ国民に夢と希望を与えた。彼の残虐なユダヤ人迫害は現在では広く知られているが、当時の国民には、あまり具体的なことは知らされていなかったであろう。彼の組織した青少年団は、思想健全・健康優良な少年少女の集まりで、彼らは本当に心から「ヒトラー万歳」を叫んでいたのである。

 このように「心からそのように思い込ませる」ことは、強弁というよりはむしろ詭弁の類に入れるべきかもしれない。しかし彼の方針についていけない者にとっては、彼の演説は所詮「強弁」に過ぎない(この点は「皇帝伝説」も「英雄伝説」も、全く変わりない)。実際、演説会場で彼に異議を唱える者は、親衛隊(突撃隊)によって容赦なくつまみ出されたし、彼が首相になってからは、反対派の暗殺さえ行われた。このように「詭弁」と「強弁」の両面を備えているところが、この種の「伝説」の特徴なのかもしれない。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p20~p21

 引用内で挙げられているエジプトのファラオ、インカ帝国のサパ・インカ、中国の皇帝をはじめ、古今東西の王様、皇帝、独裁者、首長らは「神」あるいは「神の子」「神の使い(代理人)」を名乗ったり、霊力や超能力などの超自然的な力を有していると称したりすることで、人々の上に立つための権力・権威を調達してきた。というように、人類史を通して非常に多くの権力者が「伝説」をもって人々を支配してきた。

 「伝説」は詭弁と強弁の複合体であると言えるだろう。論理や科学とは一線を画す異なる秩序に則すという意味で、「伝説」は概ね非論理的であり非科学的であると一応はみなせる。勿論、論理や現代科学によって伝説や神話を検証して、隠された因果や意味や意図(狙い)を推測することは可能かもしれない。とはいえ、伝説それ自体に正論を突き付けても何らの意味も為さない。伝説を信仰する者に論理や科学の観点から正論を説いたところで、彼らはその信仰を捨てないだろう。論理や科学の力で揺らぐような脆い信仰ではないだろうから。言うなれば、「泣く子と地頭」や寅さん(寅さんに理屈は通じない | ギロンバ-議論場- (gironba.com))と同じくらい、いやそれ以上に論理が通用しない相手だろう。

 ただ、とある伝説が「非論理的・非科学的であるため事実とはみなせない」と断言することは基本的にできない。言わずもがな、天孫降臨やイエスの復活などを目撃した人は現存していないので、今となっては誰一人として確かなことは分からない。しかし科学文明の全盛にある現代においては、「伝説」は論理的・合理的・科学的とは言い難いとされることが多いのではないか。他ならぬ私も基本的にはそのような認識に立脚している。

 先述の通り、論理や科学によって「伝説」を紐解いたりすることは可能かもしれない。しかし、論理や科学によって「伝説」を “転覆” するべきではない。伝説に支配される者は(おそらく)論理や科学的な正しさを理由に伝説を信じているのではなく、論理や科学とは別の信仰に則って伝説を信じている。その信仰を否定したり貶めたりすることはあってはならない。人間は論理や科学だけに依って立つのではない。人間には非論理的・非科学的な領域、すなわち感情や信仰の領域も必要である。

 とはいえ、「伝説」が人民支配のための強力な道具となる以上、「伝説」が人に牙をむくことは頻繁にある。引用内にもある通り、「伝説」に異を唱える者は刑罰や村八分など公的・私的双方の処罰を受けることが多い。死刑になったり、「非国民」呼ばわりされたり……。長きに渡ってアメリカでは、資本主義という伝説(夢)に反した者は「共産主義者」として国家的・社会的に排除の対象となった。文化大革命期の中国では、共産主義という伝説(夢)に反した者は「走資派」として紅衛兵たちに公衆の面前で吊るし上げられた。引用内でも述べられている通り、ヒトラー率いるナチスドイツによって激化したアーリア人種至上主義や反ユダヤ主義もまた「伝説」の効用の一つであろう。

 人間は論理だけで生きているわけではない。それどころか、議論が疎かになっている世の中を見渡すならば、論理よりも感情が力を持っているとみなすことさえできそうだ。それゆえに、ある社会で大多数の人間が信じている「伝説」に歯向かう者は多方面から激烈な反発に遭うことになる。残念ながら伝説は寛容ではないのだ。「伝説」は、正史としての伝説以外は存在を許さないという強権を有しているのだ。そのような意味で、伝説は多神教的ではなく一神教的であると言えるだろう。

 「国民の声を代表(代弁)している」ことを演出しようと努める政治家は現在もまだまだ見かけるが、(地域や国にもよるが)科学文明下の現代においては「伝説」もだいぶ希釈されているようだ。宗教や神話に対して冷笑的な態度・立場をとる者は多いのではないか。ただし、全ての伝説が影響力を減じたのではない。あくまで「宗教的・神話的な伝説」という一部の伝説が影を潜めたに過ぎない。21世紀以降も世界各地でカリスマ的な人気を誇るポピュリストが台頭し、「○○ファースト」のようなスローガンを声高に主張する政治家も支持を拡大している。カリスマによって率いられた一神教的で排他主義的な伝説は今なお世界中に根を張っている。

 「伝説」と論理・科学の関係性はどのようにあるべきか?これは難問中の難問である。ただ、一つだけ分かるのは、どちらか一方だけに偏ったりするべきではないということだ。伝説も論理・科学も両方とも大事にしつつ、中庸を心掛けつつ、伝説が暴発しそうなときには論理・科学によってこれを制し、論理・科学が暴発しそうなときには伝説によってこれを制す。伝説と論理・科学が棲み分け・共存できているときはむやみに対立しない。このような相補性・バランスが求められるのではなかろうか。

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