キング牧師は悪夢よりも夢を語った

議論
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 今回のテーマは「キング牧師は悪夢よりも夢を語った」である。では、引用から話を始めよう。

ルール47:前向きなことを提示する

 パブリック・ディベートは誰もが良策を見つけられないせいで行き詰ってしまうことがある。これは否定的な部分にばかり目が行ってしまうからでもある。相手側のどこが間違っているかに注目してしまうのだ。これに対して、良い論証は肯定的な点、つまり魅力的かつ前向きな点を提示する。

 ディベートではより良い方向を示そう。相手の考えを貶めることに専念したりせず、自説の良い点を誉めよう。反対したり拒絶したり嘆いたりするのではなく、対応策を提案しよう。実行可能なことや、希望が持てることや、多少なりとも可能性があることを提案しようー少なくとも何らかの前向きなことを。

 問題の深刻さに注目すれば、為す術がないのだと人々に感じさせてしまいかねない。もっと前向きに、対応策を示すようなやり方で問題に取り組めないだろうか?

 何も考えない楽観主義はいただけない。悲観的なことを無視するべきではない。だが、それだけで全体を埋めてしまえば、悲観的要素が唯一の真実になってしまう。すると、ますます悲観的なことを考え、それだけで頭がいっぱいになり、いくら改善したいと思っても、エネルギーも注目も正しい方向へ向かなくなってしまう。

 マーティン・ルーサー・キング牧師が「私には夢がある」と語った有名な演説は、つまるところ夢を語っている。人々が共有する、手が届く未来のヴィジョンだ。「私には夢がある。かつての奴隷の子どもたちとかつての奴隷所有者の子どもたちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である……」。では、キング牧師が悪夢について語ったと想像してみよう。「私には悪夢がある。かつての奴隷の子どもたちとかつての奴隷所有者の子どもたちが、絶対に兄弟として同じテーブルにつかないという悪夢である……」。ある意味では、この二つは全く同じことを言っている。だが、もしキング牧師が後者の表現を使ったら、彼の名演説は後世に残らなかったろう。

 パブリック・ディベートだけでなく全ての論証は、前向きな要素を提示しようとするべきだ。集団の楽観主義や興奮に感染性があるように、悲観主義や無力感にも同じ影響力がある。さて、あなたはどちらの影響力を選ぶのだろうか?

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p161~p164)

 たしかに、我々は「否定的な部分にばかり目が行ってしまう」し、「相手側のどこが間違っているかに注目してしまう」ことがしばしばである。勿論、それも必要である。議論においては、否定的な部分や間違いに気づいて指摘しなければならないことも多々ある。しかし、良い論証と良い議論を生むためには、自他の論の「肯定的な点」「魅力的かつ前向きな点」にも注目しなければならない。自他の論の良い点は積極的に褒めていこう。

 「相手の考えを貶めること」などもってのほかである。それは、「勝負や論破にこだわる」不適切な議論で行われることだ。秩序ある適切な議論においてはそんなことをしてはならない。

 我々が住まう世界には問題が多い。山積する問題に辟易してしまうことも多い。だが、諦めてはならない。諦めた先に議論は存在しない。問題の解決・改善を諦めないからこそ議論は存在しているのだ。「反対したり拒絶したり嘆いたり」したくなる気持ちも理解できる。大いに理解できる。特に、嘆くことは必要不可欠である。嘆くことがなければ問題は存在しない。問題が存在しなければ議論する必要もないのだ。

 ただ、嘆くのは議論において最低限である。嘆いた後に、「では、どのようにして解決・改善するか?」ということについて話し合わねばならない。そうしなければ先に進めない。難解な問題や深刻な問題、うんざりするような現実と対面しても、対応策・解決策・改善策を常に粘り強く探ろう。できることや可能性のあることを考えよう。「為す術はある」。

 とはいえ「何も考えない楽観主義はいただけない」し、「悲観的なことを無視するべきではない」。その通りだ。悲観的なことにも目を向けなければならない。嘆きたくなるようなことから目を背けてはならない。だが、何度も言っているように、それだけではダメなのだ。

  “どっちか一方だけ” ではいけない。我々人間はどうしても「二者択一」的な思考枠組みに囚われてしまう。複雑な世界をたった二つほどの選択肢に圧縮・単純化して、そのどちらか一つを選ばなければならないと思い込んでしまう。しかしそのように思い込むのはやめにしよう。 “どっちも” できるのだ。考えて考えて熟考した上で、楽観主義と悲観主義の双方の視点を持つことが肝心だ。楽観主義も悲観主義もどちらも大切にしなければならないのだ。

 問題提起は、どちらかと言えば悲観主義に立脚することがほとんどであろう。議論や論証の始点においては悲観主義的になりやすいだろう。議論や論証はそうならざるを得ない。その後は、楽観主義、悲観主義、楽観主義、悲観主義というように、楽観主義と悲観主義が交互に支配的となりながら議論は進んでいくだろう。粘り強く議論を継続していると、「光明が差して喜んでいたら新たな問題が判明して落ち込む。落ち込んでいたらまた新たな光明が差して喜ぶ。光明が差して喜んでいたら……」という一喜一憂の波に我々は飲まれ続ける。この波に飲まれていることは議論的には良い傾向であると思う。理想的なのは、この波に飲まれつつ議論全体として「前向きな方向へと上向いていく」ことだろう。そうなっていけば、かなり充実した議論になっていることだろう。

 また、ここで触れておきたいのは引用内のキング牧師の名演説の例である。この例はとても興味深い。要約するならば、「もしキング牧師の演説が悲観的だったら後世に残らなかっただろう」ということを言っている。勿論、「もしも」の話なので、この話が妥当であるかは分からない。しかし、「語るべきは悪夢よりも夢」ということには個人的に賛成だ。

 我々は嘆いたり憂いたりするために議論をするわけではないのだ。嘆きや憂いは議論の必要性を生じさせ、議論の発展を後押しする。しかし、嘆くことや憂うこと自体は議論の目的ではない。議論はあくまでより良い世界やより良い理解のためにあるのだ。

 ちなみに、議論と夢(理想、目的)は密接に関わっていると思う。(「他者を傷つけたい」「他者に優越したい」「何も知りたくない」「何も学びたくない」といった夢は例外だが)夢がなければ、そもそも議論する必要性が生じない。各人がそれぞれ何らかの夢(理想、目的)を持っているからこそ、その夢を叶える方策を探る手段として議論の必要性が生じてくる。

 現状に満足している人が議論を欲するだろうか?問題視するものが一切なく、知りたい・学びたいという意欲が一切ない人間に議論を欲する理由があろうか?そのような人間は少なくとも、ギロンバが目指す「みんなで一緒に特定の問題・事象についての理解を深める議論」を欲することはないだろう。現状に満足していないからこそ、すなわち現状を改善するという夢(理想、目的)を持っているからこそ議論は存在しているのだ。

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