今回のテーマは「結論の説得力は前提の説得力の程度に左右される」である。今回も引用から始めていこう。
ルール3:たしかな前提をはじめに示す
いかにスムーズに結論を導いたとしても、前提の説得力が弱くては結論も弱くなってしまう。
たしかな前提を示すのは簡単とは限らない。例えば誰もが知っている事例があったり、特定の分野に詳しい権威者の賛成意見がある場合は、簡単と言える。そうでなければ、明確な前提を示すことはなかなか難しい。もし前提に絶対的な確信が持てなければ、ある程度の調査と、前提そのものに対する短い論証(もしくはそのどちらか)が必要になるだろう。もし自分の前提を十分に立証できないとわかったら、言うまでもなく、諦めて最初からやり直そう!
(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p27~p29 )
前提が結論を支えるので、その前提の説得力が弱くては結論の説得力をも弱くなってしまう。どれだけ確からしい結論を提示していても、それを確かな前提で裏付けることができなければ、その結論は議論においては何ら効力も持たず、「個人的な独白」に過ぎないということになる。説得力を欠くというのはそのようなことなのだ。
実は、結論それ自体は単独で何ら説得力を持ち得ない。結論が説得力を生み出すのではなく、前提こそが結論の説得力を生み出し、強化する。我々は、結論だけを聞いて納得することがかなり多い。日常生活においてはそれで良いのかもしれない(無論、良くない場合・場面もあるだろうが)。しかし、議論においては、結論だけを聞いて納得することはあってはならないことだ。
世には「確からしいが裏付けがない」という言説が無数にある。しかし、それは既存の議論においてもそうだ。何度も述べているが、論証とは「推論によって根拠と証拠から結論を導く」という作業である。この論証なくして議論は成立し得ない。また、論証において重要な位置を占める「根拠」は「前提」から構成されている。それゆえ、「前提」を欠いた論証はあり得ず、論証を欠いた議論もあり得ない。確かな前提を欠いた論証でも議論でもないもの、それは「独白」である。「独白」とは、「ひとりごとを言うこと。また、そのひとりごと」(独白とは – Weblio辞書)である。
既存の議論(本来、それを「議論」と呼称することもできないが)は、前提の説得性・妥当性・信頼性の確保を軽視していると思わざるを得ない。結論だけをただお互いに言い張って、根拠や前提や推論は一向に示さない。仮にこれらを示したとしても、情報源が信頼に足るようなものでなかったり、たった一つの情報源にだけ依拠していたり、情報源の偏りを何ら考慮しなかったり、情報源の中から都合の良い一部分だけを恣意的に抽出し持論の前提や根拠としたり、論理の飛躍があったり……というような状況がある。「議論」と名の付く番組や取り組みであってもそのような状況にある。言わずもがな、結論合戦は議論ではない。
引用内にもある通り、前提を示そうとするとき、「誰もが知っている事例があったり、特定の分野に詳しい権威者の賛成意見がある場合は、簡単と言える」。しかし、誰もが知っている事例かどうか曖昧な場合や、問題としている分野に権威者がいないor少ない場合は、自力で「ある程度の調査と、前提そのものに対する短い論証(もしくはそのどちらか)」を行い、前提の説得性・妥当性・信頼性を確保しようと努めなければならない。
この作業はとても大変でとても難しい。この作業に多大な努力を傾けても、その努力が実を結ばないこともあるだろう。そのような場合は、「諦めて最初からやり直そう!」。前提が不確かで曖昧なまま論証を進めることはできないのだ。確かな前提を欠いたまま進んでいる時点で「論証」の過程を経ていない。「論証」を経ることなしに結論は生まれない。生まれるのは「独白」だけだ。前提に対して自信が持てないのであれば、振り出しに戻る他ない。
今回はここまでだ。今回覚えておいてほしいことは「結論それ自体が単独で説得力を生み出すのではなく、前提こそが結論の説得力を生み出し、強化する。それゆえ、前提の説得力が弱くては結論の説得力をも弱くなってしまう。なので、結論だけを聞いて納得しないように。たしかな前提を提示するためには前提そのものを論証したり、自ら調査しなければならない場合がある」ということだ。
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