今回のテーマは「耳を傾けてもらいたいなら耳を傾けよ」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。
ルール46:聴く、学ぶ、影響力を及ぼす
ディベートはやり取りだ。異なる意見を持つ相手と、互いに力を尽くして論証をする。ディベートは単に双方が自分の意見を述べるだけの場ではない。互いに相手の主張に耳を傾けなければならない。
(悪い例)肉を全く食べないというのは何よりも馬鹿げている。肉ははるか昔から大切な食料だ。それに、私たちの歯は豆を嚙むためだけにあるのではない。
このやり方は全くの間違いだ。肉を食べないこと以上に馬鹿げていることを本当に考え付かないような人は、そもそも論点を理解できない。一行の理由を二つ並べただけで、論証を考えもせずに全否定するというのは、賢いやり方でもない。
偏見の無いアプローチを心掛けよう。そうしてから、自分の「見解」へ戻るのだ。他の発言者の結論だけでなく、前提や根拠も理解しなければならない。彼らの論証に耳を傾けるために。相手が自身の見解について語るのを、ただじっと待っているだけではだめなのだ。自分から彼らの根拠を探し、その根拠を彼らがなぜ説得力があると考えているかまでも理解しなければならない。
(良い例)肉を食べるのをやめようという意見を理解しようと、以前から努めてきました。人間が遥か昔からずっと食べ続けた食料を、一体なぜ放棄せよというのでしょうか?そもそも、人間の内臓器官は肉の消化にも適しているのではありませんか?
悪い例の発言は否定を宣言してそれで終わりだ。それ以上は話の続けようがなく、掴み合いの喧嘩にでも発展しそうだ。それに対して良い例の発言は、一連の質問になっている。あなたはまだ説得されていないが、相手の主張を理解したいというシグナルを明確に送っていて、考え直す余地を残している。相手の論証を少し助けてやるのもいいかもしれない。そうすれば、少なくとも何かしら学ぶところはあるだろうし、いずれにしろ自分が論証する順番が来る前にしっかり準備することができる。
議論する相手が完全に満足するほど積極的に話を聞き、注意深く問いかけたと仮定しよう。あなたは相手の論証を懸命に理解しようと努めた。今度はあなたが同等の注意深く積極的な傾聴を期待する番だ。あなたの行動には影響力があるのだ。
そちらのご意見を一緒に検討する時間をくれてありがとう。疑問点がたくさん見つかり、いくつかの興味深い答えについて話し合いましたね。この論題についてはもっと考える必要があります。今度は、私の論証を説明したいと思います。途中で質問があれば、遠慮なく訊いてください。準備はいいですか?
そう言われて驚く討論者もいるだろうし、中には混乱してしまう人もいるだろう。それまでは全てが彼らと彼らの意見についてだった。公開の討論の場で(あるいは、どんな場所であれ)そんなに熱心に話を聴いてもらうなんてめったにないことで、大変に気分がいい。あなたが一緒になって注意深く論証を進めたのだから、きっと賛成してくれているはずだと、彼らは期待すらしているかもしれない(勿論、あり得ない話ではないが、必ずしもそうなるとは言えない)。
そして、やり取りはまだ半分が終わっただけなのだと、彼らはふと気づく。今度は、さっきまであなたが手本を示していたように、偏見の無い心で彼らがあなたの発言に耳を傾ける番だ。これは多くの討論者にとって初めての体験かもしれない。だが、何しろつい先ほどまであなたが熱心に真剣に耳を傾けてくれたのだから、彼らもそうしないわけにはいかないのでは?さあ、語り始めよう。
(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p157~p161)
議論は「一緒に考えるプロセス」「一緒に考えるやり取り」である。一方が他方に対して一方的に話す場ではない。議論は講義でも講演会でもない。議論という場では、あなたは自らの意見やアイデアを他者に向けて提示する必要もあるし、他者の意見やアイデアに真剣に耳を傾ける必要もあるのだ。そうでないと議論は成立しない。
上記引用内の(悪い例)は明らかに悪い例だ。言うまでもないかもしれないが、「馬鹿げている」といった言葉は議論で用いてはならない。これは明らかに「感情的な意味合いの強い言葉」である。指摘したいことは他にもある。「私たちの歯は豆を噛むためだけにあるのではない」というのは極端な表現である。これまた言わずもがな、(ここで言う「肉」という言葉が指し示す範囲は不明だが)肉を食べないからといって、豆しか食べないということにはならないだろう。肉を食べないにしても、他の植物だって食べることができるし、果実だって食べることができるし、乳製品だって食べることができるし、パンだってチョコレートだってアイスだって食べることができる。
というか、(ヴィーガンではない人は)ヴィーガンの立場に立ってみてほしい。自分に対して「私たちの歯は豆を噛むためだけにあるのではない」という言葉が投げかけられたら嫌な気分にならないだろうか?私なら嫌な気分になる。皮肉られて馬鹿にされていると感じてしまう。この言葉は、人によっては「感情的な意味合いの強い言葉」と捉えられるかもしれない。
また、「肉ははるか昔から大切な食料だ」という箇所には裏付けが必要になるかもしれない。この箇所に関しては直感的に正確な気がするという人は多いだろう。私もだ。しかし、たとえ(直感的であるか否かを問わず)万人の賛成を取り付けることができると予想される前提や考えであっても、場合によってはその裏付けが必要となることもある。どのような議論が展開されるのかは分からないが、その展開の次第では「肉がはるか昔から大切な食料だった」ことの証拠・裏付けを提示する必要が生じるかもしれない。
(悪い例)のような言葉を発してしまうことを避けるためにも、自らの偏見や固定観念や悪意を排除した上で相手の意見に耳を傾けるのだ。そして、相手の「結論だけでなく、前提や根拠も理解しなければならない」。結論だけを聞いて相手の意見をを全否定するなどもってのほかである。相手の結論だけでなく、その結論を裏付けるために相手が提示した論拠・理由をも理解しなければ、相手の意見や考えを理解したとは言えないだろう。相手の結論を裏付ける根拠を自分で探す必要もあるだろう。もし相手が提示する根拠が薄弱ならば、もしくは相手が何らの根拠も提示していないのであれば、「なぜあなたはそのような結論を支持しているのですか?理由を教えてください」と質問してみるべきだ。
人はみんな、他者から学ぶことができるはずだ。全知全能などこの世に存在しないのだから。他者から学べるところを探そう。他者の長所、他者の考えの長所は積極的に自分の中に取り込んでいくべきだ。さらに、「相手の論証を助ける」精神的余裕を持つべきだ。思い出してほしい。議論とはどのような場であったかを。議論とは「みんなで特定の問題・事象について理解を深めるための場」である。そのような場を作り上げていくのは誰か?議論参加者全員と彼ら全員の考えである。私とあなたとAさんとBさんとCさんとDさんとEさんと………と、各々の考えが議論を作り上げる。そうであるならば、みんなで積極的に相互協力するべきだろう。互いが互いの論証を助ける。そんな議論ができたなら、どれだけ意義深いことであるか!どれだけ実りある空間になることか!どれだけ濃密な時間を過ごせることか!
(良い例)は、「あなたの考えを理解しようとしている」という歩み寄りの態度を示している点で(悪い例)よりもはるかに議論に相応しい発言である。ただ、この本は日本の文脈に沿って書かれているわけではないので、この(良い例)は、もしかしたら日本人にとってはまだ皮肉や嫌味な風味を感じるものなのかもしれない。個人的にはちょっと嫌な言い方かなと思った。とはいえ、別にこの(良い例)にこだわる必要はないだろう。
読者の住まうそれぞれの文化圏の「あなたの考えを理解しようとしている」「あなたの考えを理解したい」という歩み寄りの態度・友好的な態度をとるように心掛ければ良いのだ。相手に対して「馬鹿げている」とか「あなたは間違っている」とか、そのような言葉を使うのではなく、相手に対しては「質問」するのが良い。他者の考えを理解したいのであれば、他者に質問してみるのがベストだ。質問のキャッチボールを何ターンもしなければ、我々は、とりわけ異なる考えや価値観を持つ者同士は分かり合えないのだ。「話し合えば分かり合える」人だっているはずだ。拳で語り合うのは難しい。語り合うために互いの頬を痛める必要はない。だからといって言葉で殴り合うのでもない。互いの精神を痛める必要もない。自分にも他者にも社会にも世界にも禍根を残す必要はないのだ。ただ、優しく配慮した言葉で語り合えば良いのだ。
優しく配慮した言葉を用いて、偏見や固定観念を排除して、他者の言葉に熱心に耳を傾け、他者の考えを真剣に理解しようとし、さらに、他者の論証を積極的に助けてくれる。議論するとき、そのような人が目の前にいたら、あなたは喋りたくなるはずだ。あなたは安心して話すことができるはずだ。そのような人が議論の場にいたらとても心強いはずだ。じゃあ、まずはあなたが率先してそのような人になろう。自分は何もせずに、そのような人が現れることを期待したり、聴衆にそのような人になることを期待したりするのは筋違いである。まずは “自分が” 優しく配慮した言葉を用いて、偏見や固定観念を排除して、他者の言葉に熱心に耳を傾け、他者の考えを真剣に理解しようとし、他者の論証を積極的に助けるべきだ。そうすることで他者に手本を示すのだ。そこまでしてはじめて、他者に期待して良いだろう。
勿論、その期待に応えてくれない人も中に入るだろう。しかし諦めてはならない。粘り強く手本を示し続けるのだ。不適切な態度をとる輩に同調してはならない。そういう輩に対しても上記のような態度をとるようにしよう。上記のような態度をとる者が議論の場に増えていけば、不適切な態度を改めない輩がその場で浮くようになって退散するかもしれない。そのような輩を改心させることができればベストなのだが、そのような輩が浮いてしまうような場を作ることができればベターである。
あくまで我々の目標は ”秩序ある議論” を実現することである。その目標を達するためにはその目標に賛同してくれる者、秩序を大切にする態度を心掛ける者がいなくてはならない。
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