アインシュタインも言っているように……【噂やデマは人間の限界に巣食う】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「噂やデマは人間の限界に巣食う」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

強弁との境

 詭弁と強弁とを厳密に区別することは難しい。「兄弟子という字は、無理ヘンにゲンコツと書くんだ」という、昔の相撲取りの社会(あるいは兵隊の社会)は、大体のところ、新参者に有無を言わさぬ強弁が通っていたように見えるが、階級がそれほど厳格でない社会では、強弁を押し通すのにも限度があり、詭弁が織り交ぜられるようになる。また、強弁とも詭弁ともとれるような、「相手の出方次第」の論法も使われるのである。その「織り交ぜ方」は千差万別であろうが、ここでは二分法と相殺法に限って、詭弁と強弁とを区別する一応の目安を述べておきたい。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p69

 たしかに、上下関係が厳しい領域において親から子へ、上司から部下へ、先輩から後輩へ、先生から生徒へ何らかの要求を通そうとするときは「強弁」を用いるだけで十分である。「詭弁」を用いる必要はない。詭弁のようなまどろっこしい詐欺的手段でなくとも、権力と結びついた強弁によって容易にねじ伏せることができる。上下関係などの権力関係においては論理など必要なく、ただそこにあるのは命令と服従である。

 しかし、多少なりとも上下関係などの権力関係が希釈されているような領域においては、多少なりとも論理というルールに則る必要が出てくる。それゆえに、他者に何らかの要求を通そうとするときには強弁だけでなく詭弁を用いる必要、すなわち、“論理に則っているふり” をする必要が出てくるのだ。

 とはいえ、現実の世界を眺めてもらえば分かる通り、強弁が鳴りを潜めているわけではない。詭弁の陰に隠れているわけではない。引用内で述べられている通り、やはり強弁と詭弁の「織り交ぜ」が猛威を振るっているのだ。

 ここで、もう一つの引用を加えよう。

二分法

 「悪魔か否か」の二分法を、有無を言わさず押し付けるのが強弁だとすれば、「何となくその気にさせる」のが詭弁である。「魔女狩り」でも、拷問を伴う強弁だけでなく、詭弁術も大いに活用されていた。たとえば悪魔の実在を論証(?)し、悪魔がいかに恐るべきものであるかを説いた書物は、善男全女に「悪魔」についての二分法を信じ込ませる上で(直接・間接に)役立ったことと思うが、当然のことながら詭弁のかたまりのような本ばかりである。

 詭弁の鍵は、豊富な実例と大学者の学説の引用である。実例といっても、拷問によって自白させたこと(それに尾ヒレのついた噂)であるから、今の私たちが見れば何とも愚かしいものであるが、それでも偉い人の名前と一緒に、「……だそうだ」などと囁かれると、素直な人は「そういうものか」と信じてしまうことであろう。

 大体、「アインシュタインも言っているように……」など、すぐ偉い人の名前が出てくるような話は、まず信用できないものである(市販されている魔法や超能力の本には、どうもこの傾向が見える)。

 しかし「何もかも疑う」のでは世の中暮らしていかれないので、「お隣の山田さんは……と言っていたわよ」と言われれば、山田さんが「……」に近いことを言っていたと信じ、「○○銀行が危ないそうよ」という話を聞けば、それは大変だと思う。詭弁家としては、そこにつけこむ余地がある。

 「……だそうだ」式の噂ないしデマは、今もなかなか盛んである。東京に住んでいる家族が、横浜の親戚の家に遊びに行って、そこで「東京の教育ママは、もっとすごいそうよ」という噂を聞いて驚いたという話があるが、具体的でありながら、すぐには確かめられないところが、噂の特徴なのかもしれない。東京で流行させるには「関西ではもっとすごいそうよ」とでもすればよい。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p69~p71

 「有無を言わさず押し付けるのが強弁」、「何となくその気にさせるのが詭弁」。これは分かりやすい表現である。どちらがより強力か、どちらがより悪質か、というのは一概には判断できないが、どちらもかなり強力で悪質である。ましてやこれらの「織り交ぜ」は強力極まりなく、悪質極まりない。

 多くの人によって頻繁に用いられる形態の詭弁として、「偉い人がそう言っていた」というものがある。「アインシュタインも言っているように……」というような言葉を見聞きしたことがない人はいないのではないか。そう言っても過言ではないほどに万人にとって身近な詭弁である。

 当たり前だが、「アインシュタインも言っているように……」と言われたら、あなたは「それは本当ですか?」「その証拠はありますか?」という質問を返さなければならない。相手があなたの質問に答えられないのであれば、その時点で相手の言葉を詭弁として認定できる。

 もし相手があなたの質問に対して何らかの回答を返してきたとしても、その回答において示された推論や情報源のそれぞれについて吟味しなければならない。アインシュタインは本当にそう言ったのか、アインシュタインの言ったことが曲解・歪曲・脚色されていないかといったことを確かめなければならない。

 特に議論においては、曖昧な主張や不確かな事実の提示に対しては疑問を呈するようにしよう。他者の発言に対して少しでも「ん?」と疑問に思ったら、その疑問を解消するために、また、疑問を抱いた箇所の曖昧性を後の議論に残存させないためにその発言者に質問を投げかけるようにしよう。

 「……だそうだ」式の噂・デマが多いことは想像に難くない。SNSや掲示板サイトやブログなどインターネット上で誰もが容易に何でも発言できる現代に住まう我々にとってはなおさらである。根拠不明・情報源不明の「……だそうだ」式の噂・デマは、平時と非常時とを問わず常に、ネット上と対面的日常とを問わずにあらゆるところで飛び交っている。

 円滑な日常生活を営むという必要性から「何もかも疑う」ことができないという人間の限界、物理的な制約や優先すべき日常生活という制約から「真偽をすぐに確かめることができない」という人間の限界、これらの限界があるからこそ噂やデマは存在できている。噂やデマは人間の限界に巣食うのだ。

 無論、上記のような限界は完全に克服することなどできない。我々にできることといえば、限界をわずかでも克服しようと努力することである。噂やデマが付け入る隙をわずかでも減らそうと努力することしかできない。

 「何もかも疑う」ことはできないかもしれないが、多くの物事に疑いの目を向け、湧いてきた疑問や違和感をそのまま放っておくことはせずに、疑問を解消しようと努め、違和感の正体を解明しようと努めるべきである。このような取り組みの一つ一つが噂やデマの生息域を減らすのだ。

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