今回のテーマは「後件肯定/論点先取」である。まず、「後件肯定」という誤謬について説明する。以下は引用である。
後件肯定
誤った推論形式。
(前提1)もしpならばqである。
(前提2)qである。
(結論)それゆえpである。
「もしpならばqである」という条件文では、前半部分のpは「前件」、後半部分のqは「後件」と呼ばれる。ルール22の前件肯定は妥当な推論形式だ。だが後件肯定では、たとえ前提が全て真であっても、推論が妥当でないため、その結論は真でも偽でもあり得る。例えば、
(前提1)道路が凍っていると、郵便が遅れる。
(前提2)郵便が遅れている。
(結論)それゆえ、道路は凍っている。
道路が凍っていれば、郵便は遅れるだろうが、郵便が遅れる理由は他にもある。この論証は別の可能性を見落としている。
(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p180~181)
今回説明する「後件肯定」という誤謬は、「議論」と「ルール・心掛け」のページに掲載した「前件肯定・後件否定」という記事においても言及した。
前件肯定と後件否定は正しい演繹的論証の形態である。しかし、論証する上で後件を肯定するという形態をとってしまうと、「たとえ前提が全て真であっても、推論が妥当でないため、その結論は真でも偽でもあり得る」ことになってしまう。このことは上記の引用内の郵便の例を見てもらえれば分かりやすいだろう。
結論が真でも偽でもあり得るような論証は、論証として不十分である。なぜなら、すぐさま他者から反論されることが予想できるからだ。とある事象・問題に関して、あなたは「真である」という結論を想定していたとしよう。そして、その結論を論証するために後件肯定を用いたとしよう。しかし、先述の通り、後件肯定は「真でも偽でもあり得る」ような結論を導き出す。となると、(賢明な)議論参加者はすぐさま、あなたの論証が「真でもあり得るが、偽でもあり得る」ことに気づき、その点について反論してくるだろう。
反論されることは悪いことではない(むしろ実り多いことである)のだが、やはり自分の誤りには自分で気づける方が良い。その方が、あなたの論証能力の向上にも寄与するし、議論のスムーズな進行にも寄与する。
また、他者の後件肯定を見抜くためには、常に「他の可能性はないか?」と問う姿勢を堅持する必要がある。後件肯定という誤謬は「別の可能性を見落としている」論証であるので、それを防止するためには「他の可能性はないか?」と常に問うことが最も効果的なのである。
次に「論点先取」という誤謬について説明する。以下は引用である。
論点先取
結論が前提に含まれてしまっているために、論証のようでいて論証になっていない。
聖書に神は存在すると書かれているのだから、神は存在する。聖書は神が書かれたのだから正しい。
これを「前提→結論」の形にすると、次のようになる。
(前提1)神が書いたのだから聖書は正しい。
(前提2)聖書には神が存在すると書いてある。
(結論)それゆえ、神は存在する。
聖書が正しいという主張を擁護するために、神によって書かれたと主張している。だが、神が聖書を書いたのなら、当然、神は存在する。つまり、この論証は証明しようとしている事柄自体を真実と決めてかかっている。
(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p181~182)
「論点先取」という誤謬は、いわゆる「結論ありき」の論証である。これまた頻繁に見受けられる誤謬である。
上記の引用内の聖書の例を見れば分かりやすいのだが、この例においては、「神は存在する」という結論の前提として「神が聖書を書いた」というものを挙げている。しかし当然ながら、「存在」していなければ「書く」ことなどできない。つまり、神の存在を証明するために神が存在することを前提にしているのだ。言わずもがな、これは論証とは言えない。
ある主張を論証するには、その主張とは異なる別の事象を前提に据えて論証する必要がある。引用内の例の場合で言えば、(可能であるかどうかは分からないが)神の存在を証明するためには、「神の存在」以外の事象を前提に据えて論証を展開しなければならない。
皆さんがインターネットで怪しいと思った情報があれば、ぜひこちらへ投稿お願いします。
また、参考文献および関連本はこちら