勝敗なき議論を常識に【日本の議論革命】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「日本の議論革命」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

強弁術の総括

強弁と常識

 強弁術の要諦を格言風にまとめると、次のようになるであろう。

⑴相手の言うことを聞くな。

⑵自分の主張に確信を持て。

⑶逆らう者は悪魔である(レッテルを利用せよ)。

⑷自分の言いたいことは繰り返せ。

⑸脅し、泣き、または喋りまくること。

 このようなワザの達人を、蔓延らせてはならない。といっても、小児型強弁術について前に観察したように、根が深いところにある(らしい)ので、なかなか絶滅は難しかろうと思う。ただ、常識がないために自分の感情を振り回す「悪気のない強弁術者」に対しては、健全な常識を作り上げ、普及させることが有益であろう。

 良い例が、交通法規の発達である。みんなが安全運転を心掛け、常識に従って車を運転すれば、事故などやたらに起こらないはずであるが、実は「常識」というものが案外アテにならないので、六割の人が常識と思っていることでも、あと四割の人は知らなかったり、反対に考えたりするものなのである。そこで、「細い道から広い道に出るときは、広い道の方の通行を妨げないようにすること」とか「同じぐらいの広さの道が交差しているところで、二台の車が同時に交差点に差し掛かったときは、左側の車の方が優先的に通行できる」などという風に法律で決めて、共通の常識を言わば「作り上げて」ゆくのである。

 団地での騒音問題についても、次第に詳しい常識を作り上げなければならない。たとえばトイレの水音や赤ん坊の泣き声などの「生活音」と、ピアノの音や室内でのハイヒールの足音などの「騒音」を区別することが第一歩である。また、許される騒音の程度、音量や時間帯などの目安が決まってくるとよい。日本で適当かどうか分からないが、フランスでは「午後八時」という目安があり、アパートでそれより遅くピアノを弾いていると、警察に電話されても文句は言えない。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p55~p56

 引用内の⑴~⑸は覚えておいてほしい。勿論、強弁を使うために覚えるのではない。強弁術に対抗するために覚えておくのだ。対抗する際には、対抗対象の特徴をよく把握しておくことが大事である。強弁術を用いる者は「相手の言うことを聞かない」し、「自分の主張に確信を持っている」し、「自分に逆らう者は悪魔だと思っている」し、「自分の言いたいことを繰り返す」し、「脅したり泣いたり喋りまくる」。あなたはこのような者と会話したいだろうか?議論したいだろうか?余程の物好きじゃない限り、会話も議論もしたくないはずだ。なぜなら、会話にも議論にもならず、ただひたすらにまくし立てられて迫力に圧倒されるだけだろうと容易に予想できるから。

 だから、そのような者を減らしていかなければならないのだ。ましてや、増やしてはならないのだ。強弁や詭弁が通用し力を持ってしまうような社会は、自己中で声の大きい強情っ張りが天下を取る社会である。既にそのような社会であるかもしれないが、ともかくそのような社会であってはならない。我々人間は話し合うことなしに何事も成せないのだ。

 では、どうすればよいのか?となったときに重要となるのが「常識」である。もっと言えば「常識を作り上げること」である。引用内で例示された交通法規や団地の騒音の基準・区別のように、議論についても「常識」や「共通認識」を作り上げなければならないのだ。では、それはどのようなものであるべきだろうか?議論は勝負ではなく勝敗もない。議論はみんなで特定の問題や事象について理解を深め妥協点や最適解を探るための場である。謙虚な態度を心掛け、自分が誤っている可能性を認識する。他者を傷付けないように配慮する。というような方向性の常識を構築することが求められるはずだ。

 上記のような「常識」「共通認識」を構築するためには、議論の理解者や秩序ある議論に関わりたいと願う者を一人一人増やしていく他ないだろう。常識や共通認識は地道な努力の末に打ち立てられるものである。一夜にして打ち立てられるようなものではない。議論を根付かせるというギロンバの試みは現在の日本社会においては現実味に乏しい革命行為であるかもしれないが、革命とは常に現実味に乏しいものである。それもそうだ。なぜなら、革命は新たな現実を構築する試みなのだから。未だ見ぬ現実に至らない革命は革命とは言えない。論破主義者の跋扈する殺伐とした議論(と名乗る口喧嘩)を忌避し、ギロンバの議論観に立脚した議論を日本社会に共に構築していこうとする者一人一人、その試みに賛同してくれる者一人一人が新たな議論の「常識」「共通認識」を構築するという革命を成就させるだろう。

 議論についての「常識」「共通認識」が社会に広く普及するようになったら、その常識や共通認識に則ろうとする傾向が人々の間に生じてくるはずだ。加えて、その常識や共通認識に頑なに従わない詭弁・強弁術ユーザーは議論から排除されることになるはずだ。そうなれば、いよいよ議論の真価が発揮されるようになる。そして、秩序ある議論を維持増進していくことで我々人間の問題化能力や想像力や実行力は発展していく。改善・解決される問題や理解の深まる事象が増大・拡大していく可能性も出てくるだろう。

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