今回のテーマは「二分法的レッテル貼りへの反撃」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。
二分法への反撃
「私の意見に逆らう者は、悪魔だ」という二分法に対して、「そう、私は悪魔だ」と開き直ったらどうであろうか?相手が強権を持っている場合には、「生きながら焚殺」されるかもしれない。しかし悪魔というレッテルがそういう攻撃力を失っている場合には、開き直られた方がグッとつまって、眼を白黒させることになるであろう。「この悪魔め……」とつぶやいてみたところで、それだけでは痛くも痒くもないのである。
私が中学生だったとき、授業中にある老先生が「母親の感情はある種のホルモンに基づく」という学説を攻撃して、母親の愛情がいかに貴いものであるかを説いたことがあった。そのとき生徒の一人が手をあげて、次のような質問をした。
「先生はそうおっしゃいますけれども、母親の愛情の全てが貴いわけではないと思います。僕は、電車の中で、よその子を押しのけて自分の子を座らせている母親を見たことがあります」
すると気が短い老先生は大声をあげた。
「では君は、母親の愛情はホルモンの作用だというのか!」
立ったままの生徒はしばらく考えていたが、静かに答えた。
「そう思います」
教室中シーンとしてしまい、老先生は絶句した。
老先生の失敗は、母親の愛情が「貴いものか、ホルモンの作用か」という二者択一を強いたことであった(しかも、ホルモン説などは悪魔の説に等しいという前提があった)。おとなしい生徒なら、譲歩してホルモン説を否定したかもしれないし、ホルモン説が否定されてからなら、老先生も生徒の指摘を認めて、母親の「行動」についての論理的な話し合いが続けられたのかもしれない。しかしこのときは相手が悪く、老先生の(無意識的)強弁術は強烈なカウンターパンチによって、粉砕されてしまったのであった。
野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p43~p44
「私の意見に逆らう者は悪魔だ」「はい、私は悪魔です」。この返答はアリだ。無論、リスクは考慮するべきではあるが。「私は悪魔です」と答えても何の刑にも処されないし、そもそもそのように答えたとしてもあなたが悪魔であると本気で信じるような人がいない現代日本だったらこの返答はアリだろう。このような返答をされた強弁家(強弁を振り回す者)には返す言葉がないだろう。
なぜなら、「悪魔呼ばわりされること」と「周りから悪魔であると思われること」が万人にとって避けたい事態であるという想定の下、強弁家は「悪魔」というレッテル貼りを行っているからだ。強弁家は「はい、そうです。私は悪魔です。それが何ですか?」という態度をとられることを想定していないのだ(想定していたとしたら、そもそもレッテル貼りという手段を採らないだろう)。
強弁を振り回す者の立場に立ってみると、レッテルとして採用する文言は「特定の社会において一般的に嫌われている属性」を表すものにする必要がある。私の意見に逆らう者には「この社会において一般的に嫌われている属性(悪魔や非国民など)」のレッテルを貼っちゃうよ、という脅迫をする必要がある。
強弁家が相手に期待している反応は「い、いや。そ、そんなつもりじゃ……私は悪魔ではありません」という動揺と沈黙・閉口である。それなのに、「はい、私は悪魔です。それが何か?」というような態度をとられると拍子抜けして返す言葉がなくなってしまうのだ。レッテル貼りという脅迫作戦が瓦解して強弁家は調子を崩してしまうのだ。
結局、ここで強弁家(引用内で言う「老先生」も)が返す言葉を見つけられずに調子を崩してしまうのは、①「私の意見に賛同する者は非悪魔であり、逆らう者は悪魔である」という “二者択一” に囚われ、②「悪魔呼ばわりされることを万人が拒むはずだ」という “確信” に囚われていたからだ。
強弁家にとって、「はい、私は悪魔です。それが何か?」というような態度をとる者はイレギュラーなのだ。上記の②の要件に反するイレギュラーなのだ。「私の意見に逆らう者は悪魔だ」という二分法をレッテルとして機能させるためには①と②の両方の要件をクリアしなければならないのだ。
おそらく無意識下ではあるだろうが、強弁を振り回す者の頭の中は上記のようになっているだろう。しかし、強弁を振り回すつもりがなくても誰でも無意識的に二分法に囚われ得るし、無意識的にレッテル貼りを犯し得るのだ。
では、どうしたら無意識的な二分法やレッテル貼りを減らしていけるのだろうか?
ずばり、“二者択一” という単純な思考枠組みに頼らずに、“確信” を避けて万物を疑う姿勢を保ち続けることで大方の二分法やレッテル貼りは防ぐことができるだろう。そしてこのような心掛けは、他者の二分法やレッテル貼りを察知・指摘する能力の向上にもつながる。
過去の記事において何度も何度も何度も述べているが、世界や人間は複雑なのだ。二者択一で捉えられるような単純明快な代物ではないのだ。考えれば考えるほど世界は複雑・難解であると実感するものだ。単純な思考枠組みで世界を捉えることができると思えているうちは思考や思索や知識や好奇心が不足していると言わざるを得ない。二者択一・二項対立・二分法は思考を放棄した怠惰な者が行き着く成れの果てである。
「世界は複雑だ。単純で簡単な思考では世界を捉えることはできない」「0か100かだけを想定するのではなく、3、25、48、60、89というような様々な度合い・程度も存在していることを想定しよう」というようなことを覚えておこう。
議論に際しては確信するべきでもない。自分の意見や特定の主張が正しいと信じ込んでいると反論に耐えられない。どんなに妥当な反論であろうと、その反論を認めることができない。反論の論拠や妥当性について吟味するよりも先に、自分の信じ込んでいたものを否定されたという憤激が込み上げてくるのだ。まるで自分の信仰が否定されたかのような激烈な感情を催すのだ。これでは議論にならない。みんなで特定の問題や事象に関する理解を深め、最適解や妥協点に達するという目的を持つ議論にこれほどまでに不適な態度はないだろう。
「この世に絶対的なものなどなく、全ては相対的だ」「自分の持っている意見はあくまで私の個人的な意見である。他の人は他の意見を持っている。自分のとは異なる意見を持っている」「自分の意見は正しいかもしれないしそうでないかもしれない。他者の意見もまた正しいかもしれないしそうでないかもしれない」というようなことを覚えておこう。
かくいう私も二者択一や確信という人間の悪癖から逃れることができているわけではない。日々、それらの悪癖から逃れようと苦闘している。気を緩めると、どうしても楽な方へ楽な方へと吸い寄せられていってしまう。単純な思考枠組みや疑いを忘れた確信へと身を委ねてしまう。
これに抗うため、複雑な世界を複雑なまま捉えられるよう思考することから逃げずに、難解な思考や長考が必要になるときはその必要に素直に応じる。一応、このように心掛けてはいる。私と共にみなさんもこのように心掛けていこう。そして、論破や強弁や詭弁を撲滅して、日本に勝負なき議論の文化を根付かせよう!
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