「どうして俺だけ」論法【恣意的な公平性の濫用】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「恣意的な公平性の濫用」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

公平の原則

 捕まったドジな泥棒が、捕まえた人に「他にも泥棒はいるんだ。どうして俺だけ捕まえるんだ」と食って掛かってきた。見ている人はどう思うだろうか?「盗人にも三分の理とはこのことか、なるほど」と思うだろうか?公平の原則からいって、「捕まらない泥棒」もいるのに、ある泥棒だけ捕まえるのはおかしいと考えるだろうか?捕まえた人は、そうは考えないであろう。「盗人猛々しいとはこのことだ。生意気言うな!」

 盗みを働くという罪と、「捕まらない泥棒もいる」という一般的な事実とを相殺させることはない。公平の原則とは、全ての泥棒を捕まえようとする努力において発揮されれば十分なのであって、結果が意図の通りにならなくても、(被害者ならともかく)泥棒がどうこう言える筋合いのものではない。しかし、世の中にはこのドジな泥棒のような人も少々いるようである。そして「公平の原則」を振り回して、自分の落ち度を棚上げにしようとする。これも一種の相殺法であるが、これまでの例では曲がりなりにも「当事者のしたこと」が相殺のタネになっていたのに対して、今度は「不特定多数の状況」と相殺してしまおうというのだから、それだけ応用が広いし、タチが悪いとも言える。

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p50~p51

 前回の記事他者の罪は自分の罪を正当化しない【相殺不可能な自分の罪】 | ギロンバ-議論場- (gironba.com)においても取り扱ったが、特定の人物が犯した罪を一般的な事実によって相殺することは基本的にできない。特定の人物への罰はその人物が犯した罪に対応している。「罪の報いとしての罰」「罰される行為としての罪」、すなわち「罪を犯したら罰を受ける」ということ、それ以上でもそれ以下でもない。

 赤信号みんなで渡れば怖くない。たしかにそうかもしれないが、赤信号時の車道を渡ること自体が「罪であること」に変わりはないのである。その「みんな」の構成員全員が罰されるべきであることに変わりはないのである。怖くないかもしれないが、みんなで同一の罪を犯しているだけである。みんなでやったからといって罪が罪でなくなることはないのである。みんなでやったからといって罪が軽減・希釈されることもないのである。

 もし「捕まらない泥棒もいるのに、ある泥棒だけ捕まえるのはおかしい」という認識が成り立つのであれば、すなわち、泥棒にとっての「公平の原則」が成り立つのであれば、警察はどうすればよいのか?

 警察官は全ての泥棒を同時に捕まえなくてはならなくなるだろう。泥棒に「どうして俺だけ捕まえるんだ」と食い掛かられたときに「捕まったのはあなただけではありません。たった今、あなた以外の全ての泥棒も一斉逮捕しました」と警察官が反論できれば、泥棒は何も言えなくなるだろう。捕まったのは俺だけではなかったのだ。諦めがつくはずだろう。

 まぁ、こんなことはあり得ない。警察が全ての泥棒を同時に一斉逮捕するというのは不可能だ。現実的ではない。ということは、泥棒に「他にも泥棒はいるんだ。どうして俺だけ捕まえるんだ」と言われた警察官が「それもそうだな。たしかにお前だけ捕まえるのは不公平だな」と泥棒を見逃すような、泥棒にとっての「公平の原則」が成り立つ世界においては泥棒が野放しになってしまうのだ。そんな世界に納得する者はほとんどいないのではないだろうか。

 この仮の話は言わば極論である。恣意的な「公平の原則」の濫用という強弁・詭弁がいかに破綻している物言いであるかを際立たせるための極端な仮の話である。ただ、強弁や詭弁がまかり通ってしまう世界とは上記のような世界なのだ。

 そのように考えると、(「どうして俺だけ捕まえるんだ」という泥棒の物言いこそ通用していないが)強弁や詭弁がまかり通ってしまう現状がいかに危険であるかを理解できるだろう。強弁や詭弁を野放しにする状況が無法地帯への前段階であるということを決して忘れてはならない。強弁や詭弁が通用しない社会を作っていくという取り組みは、日本を無法地帯にしないための取り組みなのである。

 今回は泥棒による強弁の例を提示したが、強弁や詭弁を振り回すのは犯罪者だけではない。夜分にピアノを弾いて苦情を受けた者が「あなただってトイレを流す音がうるさいんですよ!」と自分の非を棚上げしようとするとき。子供が駄々をこねながら「みんな持ってるのに、なんで僕だけは買ってもらえないの!?」と駄々をこねて親におもちゃをねだるとき。というように、あらゆる場面であらゆる人物が、自分の非を認めなかったり自分の要求をゴリ押したりするために強弁や詭弁を用いている。自分の要求・欲求を実現するために論理を用いた説得を構築することができない(または構築する手間を省きたい)ゆえに強弁や詭弁に手を染める暴漢・暴徒が世の中には山ほどいる。

 「他のみんなは○○しているのに、なんで自分だけ○○しちゃいけないんだ」「他のみんなは○○していないのに、なんで自分だけ○○しなきゃならないんだ」という形態だけではなく、強弁や詭弁には多種多様の形態がある。しかしそのどれも、冷静に考えてみれば見抜いて指摘できるものである。

 最も効果のある強弁・詭弁対策は、疑いの目をもってよく考えることである。短絡的に無批判に無思慮になってはならない。感情を優先するあまり論理を疎かにしたり他者の意見を自分好みに歪曲したりするような暴漢・暴徒になってはならないし、そのような暴漢・暴徒に言いくるめられてもならない。

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