「自分たちは何が分からないか」を分かること【万物の根源は疑問】

詭弁・誤謬
スポンサーリンク

 今回のテーマは「万物の根源は疑問」である。では、引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。

詭弁術の誕生

科学と詭弁

 強弁と同じように、詭弁の誕生もまた、歴史の彼方にかすんでいて、「いつ、誰が創始した」というようなことを、確定できるわけではない。しかし詭弁を飛躍的に発達させた時期として、まずギリシャ時代を挙げるのは差し支えないであろう。ターレス、ソクラテス、アリストテレスなど、言葉を武器として真理を追究する哲学者たちが誕生したのはこの時代であるし、その流れの中に、弁論に長けた「ソフィスト」(知者、教師、詭弁家)を輩出したのもこの時代であった。

 実際、言葉による真理の追求と詭弁術とは、紙一重である。ターレスは「万物は水である」と言ったけれども、これもただそれだけ聞くと、詭弁か強弁かぐらいにしか思えないだろう。ターレスのために弁護しておくと、彼は「万物は水である」という教説を広めようとしたのではなくて、「万物は何でできているか」という問題を取り上げたのであった。ただ、実験設備が何もない時代のことであるから、彼は言葉だけを武器として、言わば素手で問題に取り組む他なかった。そこで仮に「万物は水である」として考えてみよう、それでうまく説明できない事柄があったら、仮説を修正しよう、というのが彼の思想である。新しい言葉で言えば、彼は「思考実験」をやったのであった。

 ターレスの弟子たちは、早速先生の仮説を吟味した。そして、「水だけから、たとえば火のような、全く性質が反対のものができるとは考えにくい」ことを指摘して、他の新しい仮説を探した。こうして、「霧のように何か中間的なものから、万物が分かれてきた」とか、火・水・風・土のいわゆる「四大」が混ざり合うことによって、万物が作られているとかいう仮説が取り上げられ、比較され、やがてデモクリトスの原子論やユークリッドの幾何学へと発展していったのである。

 このような健康な論争に混じって、珍妙な仮説にこだわる人たちや、仮説を「学説」に格上げして、弟子たちに押し付ける人もいた。というよりは、同じ人でもある問題については健全な常識を発揮し、他の問題については変わった「学説」を持っていた、と言った方が実情に近いかもしれない。たとえば「三平方の定理」(ピタゴラスの定理)で有名なピタゴラスも、「ギリシャ人中、最も有能な哲学者」(byヘロドトス)とか「あらゆる熟練技能の巨匠」(byエムペドクレス)と呼ばれているが、神妙不可思議な面もあり、弟子たちにソラ豆を食べることを禁じたり、また「4」(四大)と「10」(万物の母にして聖なる数)という数に神秘的な意義を認めていた。彼は新入りの弟子に「1、2、3、4」と指を折らせて(両手の指を広げ、まず一本、次に二本の指を折り、次に三本の、最後に四本の指を折らせる。すると、十本の指が全部曲げられることになる)、次のように教えたという。

 「ご覧、おまえが4と思ったのは実は10だった。これは正三角形で、我々の合言葉だ」

 これが詭弁でなくて、何であろうか?

野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p62~p64

 紀元前5世紀ごろのギリシアにおいて「ソフィスト」という言葉には教師や教育家という意味があったのだが、一方で「詭弁家」という悪い意味も含んでいた。

 このことから分かるのは、少なくとも紀元前5世紀頃から「詭弁家」が存在していたということである。現在もなお多大な勢力を維持している「詭弁家」は少なくとも約2500年前にはもう既に存在していたのだ。しかも、「詭弁」という名前が付けられていること自体からも分かるように、当時から既に「詭弁」は問題視されていたのだ。詭弁の歴史は古いのだ。

 古代ギリシアを代表するターレス、ソクラテス、アリストテレスなどの哲学者の言葉は、現代人にとってはいささか「詭弁」的なようにも思われるかもしれない。しかし、何せ2500年以上も前の時代だ。現代とは勝手が違う。

 現代は科学の時代であるが、古代ギリシアの時代は科学の萌芽の時代であるとみなせるだろう。当時は実験設備など勿論ないし、明らかになっていないことが山ほどあったし、非科学的な領域が大きな力を持っていた(後の「科学」と呼ばれる営みを形成する前段階であるから、非科学的であって当然だ)。

 とはいえ、この時代の哲学者たちの言葉や考えを吟味し、反省し、発展論や反論というかたちで新たな知や発見へと昇華させることなしに我々の科学は、我々の時代は存立し得なかっただろう。現代人の我々からしたら「何か変なことを言ってる」と思ってしまいそうな先人の言葉であっても(たとえそれが詭弁であっても)、それを乗り越えることによって、乗り越えようとする過程を経ることによって我々の常識や我々の世界は構築されてきたのである。

 特に、新たな問題を提起することは人類史の中で燦然と輝く功績であろう。引用内でも述べられていたが、ターレスの「万物は何でできているか」という問題提起は極めて重要であった。ターレス以前、世界の構造については神話的な説明がなされていたのだが、ターレスはその世界の構造を合理的(論理的)に説明しようとした。世界に存在する全てのものを生成する一つのもの、すなわち「万物の根源(アルケー)」が存在すると想定し、その万物の根源を「水」であると想定した。

 ターレスが「万物は何でできているか」と問うた時に、人類に科学と議論への扉が開かれたとさえ言えるかもしれない。「問題提起」は極めて重要な行為なのである。勿論、問題提起するには疑問を抱かなくてはならないので、「疑問を抱くこと」もまた「問題提起」と並んで極めて重要な行為である。

 そして、疑問を抱いてそれを世に提起することは「“自分たちは何が分からないか” を分かること」なのである。それが分からなければ、当然ながら未知への探求と未解決問題の改善・解決の模索もまたあり得ない。それゆえ、“自分たちは何が分からないか” が分からなければ、科学する必要・意義も議論する必要・意義も生じようがないのである。問題提起によって「自分たちは何が分からないか」を分かったら、その「分からない」を解消するために、科学をしたり議論をしたりして “研究” するようになる。

 しかし、“自分たちは何が分からないか” を分かるには、現時点で人類が分かっていることを分かっている必要がある。型を破るにも型を理解・修得していなければならないのと同様に、分からないことそれ自体を明らかにするには、まずは分かっていることを理解しなければならない。すなわち、現時点までに先人が世界に蓄積してきた知見を理解しなければならない。その理解への営みは通常 “勉強” や ”学習“ と呼ばれる。

 「“自分たちは何が分からないか” を分かること(=問題提起)」と「分かっていることを分かること(=勉強・学習)」という基盤があってはじめて、科学や議論によって「分からないを解消しようとすること(=研究)」が可能になるのだ。

 なので、何物何事に対しても疑問を持とう。持った疑問をみんなに提起しよう。みんなで疑問の解消・解決を目指そう。これらの心掛けは議論や科学において最重要のものである。ということは、人類にとっても最重要のものである。

 以上を鑑みて、私なりに「万物の根源(アルケー)」を設定するならば、それは「疑問」である。私なりの「万物の根源(アルケー)」は “疑問” である。

タイトルとURLをコピーしました