泣いて乞うても単位は貰えない/赤信号をみんなで渡ってもルール違反【同情心に訴える論証/衆人に訴える論証】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「同情心に訴える論証/衆人に訴える論証」である。まずは「同情心に訴える論証」について説明する。引用から話を始めよう。

同情心に訴える論証

 同情心に訴えて、特別扱いを求める。

 私がすべての試験に落第したのはわかっていますが、もしこの科目で単位をとれないと、夏期コースを再履修しなければなりません。どうか単位をください!

 同情心に訴える手段は必ずしも悪くはないが、具体的な事実に基づく評価が必要とされる場合には、全く不適切である。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p179)

 たしかに、「同情心に訴える手段は必ずしも悪くはない」。例えば、何らかの事件や事故や災害の被害者が置かれている悲惨な状況に対して、実際に我々は同情心を抱く。そして、そのように同情心を抱くからこそ、我々は、他者の窮状を改善するために行動を起こすこともある。同情心がなければ、社会問題も存在し得ない。同情心を喚起しようとすることも、同情心を抱くことも悪いものではない。

 しかしながら、「具体的な事実に基づく評価が必要とされる場合」においては、同情心を喚起しようとするのはダメだ。これは、「感情的な意味合いの強い言葉を用いてはならない」という論証・議論のルールへの違反である。

 上記の引用内の「単位をください」という例を見てもらえれば、分かりやすい。成績評価や単位修得というのは、試験や課題の点数、課題の提出回数、出席回数、受講態度など具体的な事実に基づかねばならないものである。たとえ、この生徒に対して同情心を抱いたとしても、その同情心によって成績評価を歪ませてはならない。つまり、単位は与えてはならない。

 我々は、同情という感情の機制を持っているからこそ、実際に同情心を抱くからこそ、しばしば「同情心に訴える論証」に騙されてしまうのだ。少々ドライな言い方をするのなら、同情心は事実に対する評価を歪ませるのだ。

 もし意図的に「同情心に訴える論証」をしているのであれば、それは、聞き手の善意を悪用して自分の主張を押し付けようとしているということである。また、たとえ意図的でなくとも、議論において無意識的に聞き手の同情心に訴えようとしてしまうこともある。とはいえ、意識的であれ無意識的であれ、誤謬(ルール違反)であることには変わりない。

 「同情心に訴える論証」を見かけたときには、一旦感情を抑えて、“事実だけ” を捉えるようにしよう。

 次に、「衆人に訴える論証」を紹介しよう。以下は引用である。

衆人に訴える論証

 人々の感情に訴え、「みんなこうしている!」といった具合に煽動することで、自らの主張に支持を取り付けようとする。権威を利用した悪い論証の例である。「みんな」が十分な知識を持つ信頼のおける情報源なのかどうかについては、何の根拠も提示されていない。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p179)

 「衆人に訴える論証」は非常に頻繁に見受けられる誤謬である。「みんなやっていることだから…」という言い訳(理由付け)は読者のみなさんも聞いたことがあるだろう。

 たしかに、大多数が行っていること・言っていること・信じていることには、一定の権威があると期待できる場合もあるかもしれない。しかし、「みんなやっていることだから……」と言うとき、その「みんな」とは一体誰のことを指しているのか?情報源に値する人達なのか?みんながやっていることだとしても、それが「誤っていること」や「悪いこと」である可能性はないのか?などなどという疑問が湧いてくる。

 例えば、赤信号にもかかわらず横断歩道を渡ろうとしている人がいる。あなたはその人を注意した。すると、その人が「いいだろ!みんな渡ってるんだから!」と反論してきた。この場合、みんなとは誰のことなのか分からないし、その「みんな」が情報源として妥当なのかどうかも分からない。そもそも、みんながやっていることだとしても、「赤信号を渡る」ことは交通ルール違反であることには変わりない。「赤信号みんなで渡れば怖くない」のかもしれないが、それは「みんなでルール違反を犯している」だけである。みんなでルール違反を犯しても、ルール違反であることには変わらないし、それゆえに免罪もされない。

 勿論、「みんな○○をやっている」「みんな○○と思っている」というような内容でも、論証的に妥当である場合もあるだろう。あまりにも当たり前なことを示して「みんな」という言葉を用いている場合もあるだろう。例えば、「みんな、幸せになりたいと思って生きている」というように。例外はいるのかもしれないが、大多数の人にとってこのことは真であるように思う。

 とはいえ、「みんな」という言葉は、不明確な内容のまま安易に用いられることがほとんどだ。なので、基本的に、議論の場において「みんな」という言葉が出てきたら用心してほしい。

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