原因でないものを原因、結果でないものを結果とする/アメリカには愛国者か非愛国者しかいないのか?【不当原因/誤った両刀論法】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「不当原因/誤った両刀論法」である。まず、「不当原因」という誤謬・詭弁について説明していこう。以下は引用である。

不当原因

 因果関係に関して疑問の余地がある結論の総称。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p186)

 引用内の説明では漠然としていて分かりにくいので、言葉を足して解説していく。「不当原因」とは、不適切な因果関係を提示するという誤謬・詭弁である。例えば、とある事象に関して因果関係が指摘された際に、その因果関係が誤っていたり(原因ではないものを原因、結果ではないものを結果として立てていたりするなど)、その因果関係が最も確からしい説明とはみなせなかったり(その因果関係よりも別の因果関係が妥当であるという可能性が考えられるなど)、その因果関係が事象を単純化し過ぎていたり(複雑な事態を理解しやすくするために行った単純化が恣意的であったり極端であったりするなど)することだ。

 「不当原因」がどのような誤謬・詭弁であるかを理解するには、適切な因果関係・相関関係がどのようなものであるかを理解する必要がある。因果関係や相関関係については、「議論」「ルール・心掛け」のページに掲載されている「因果関係を導出するために相関関係を探る」、「相関関係を考える上での注意点」、「最も確からしい相関関係を導き出す」、「多くの原因と多くの複雑な相関関係がある」といった記事に詳しく述べられているので、是非これらの記事を読んで頂きたい。

 次に、「誤った両刀論法」という誤謬・詭弁について説明する。以下は引用である。

誤った両刀論法

 実際にはもっと多くの選択肢があるにもかかわらず、二つの選択肢だけを提示するという誤り。提示される選択肢は両極端な内容である場合が多い。例えば、「アメリカという国は、愛国者になるか、背を向けるかのいずれかだ」。

 もっと微妙な例は次のようなものだ。「宇宙が何もないところから生じたはずはないのだから、何らかの知的生命体によって作られたに違いない」。知的生命体による創造が唯一の可能性だろうか?この論証は別の選択肢を見逃している。

 倫理的な論証は特に両刀論法に陥りやすい。例えば、胎児は私たちと同等の権利を持つ人間か、単なる細胞組織の塊か、といった問題だ。また、医薬品開発などのための実験に動物を使うのは誤りか、現状での使用は容認できるのか。実のところ、どんな問題であれ、一般には別の選択肢が存在する。視野を狭めず、できるだけ多くの選択肢を考慮に入れよう!

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p186~p187)

 これは非常に頻繁に見られる誤謬・詭弁である。世界は極めて複雑である。一方で我々の思考は不完全であり、我々は、複雑なものを噛み砕いて単純化することで楽に理解しようとする。しかし、議論をする際には、この単純化という自らの癖に抗わねばならない。

 世界や事態が単純に見えるのだとしたら、それは “錯覚” だ。ほとんどの場合、「実際にはもっと多く選択肢がある」。ほとんどの場面において「別の選択肢を見逃している」ことの方が多い。議論においては、選択肢が二つしかない状況、つまり二者択一の状況に置かれることなどほとんどない。ましてや、二つの両極端な選択肢からどちらかを選択するしかないという状況はほとんどない。議論に行う際には(できれば議論以外の日常生活においても)、このことを肝に銘じておいてほしい。

 言うまでもないかもしれないが、アメリカには愛国者もいるし、非愛国者(国に背を向ける者)もいるし、その「どちらでもない人」もいる。その「どちらでもない人」の中には様々な程度・度合いの人がいる。愛国者寄りの人、非愛国者寄りの人。当然、その寄り方にも程度や具合や差異がある。むしろ「どちらでもない人」の方が多数であると考えた方が良いだろう。愛国者と非愛国者のどちらかに分類される人は少数であると考えた方が良いだろう。

 胎児は人間か?それとも細胞組織の塊か?この単純な二項対立の間に様々な考えや意見が存在していることを無視してはならない。往々にして、最適解は二項対立の間のゾーンにある。なぜなら、最適解とは妥協点のことであり、その妥協点が二つの極のいずれかになるということはあまりないからだ。

 議論というのは、一方が他方を負かして、勝者が敗者に持論を押し付けるために行うものではない。議論は、異なる考えや意見を持つ他者と特定の事象について考え、互いの考えや意見の妥協点を探るという営みである。少なくとも適切な議論においては、最適解は、妥協点を探りやすい中間的・中道的なものになる傾向がある。勿論、ある考え・意見に他者が説得される(これは「論破」ではない。※「論を破る」と「説得する」は全く異なる概念である)という議論もなきにしもあらずだが、極端VS.極端で一方の極端が勝つという議論は、“適切な” 議論においてはほとんどない。

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