今回のテーマは「意味も定義も分からない言葉をむやみに使わない」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。
深遠な言葉
「生きるってなんだ?」「勉強ってなんだ?」などと思い悩む年頃に、先輩の振り回す難しい言葉に煙に巻かれた覚えのある方はおられないだろうか?分からないのは自分が悪いんだと思って、わかった「つもり」で先へ進もうとする。
若者たちを悩ませる煙の代表は、「本当の」「絶対的」「本質的」などという、深遠でしかもどこにでも使える言葉であろう。これらがいかに詭弁的であるかは、言葉の意味がぼかされて、結局は「いいように」あしらわれてしまうことから分かる。たとえば「愛」という言葉について考えてみよう。相手の考えに反対したければ、
「本当の愛っていうのは、そんなものではない」
と言えばよい。自分の考えを押しつけたければ、たとえば「憎しみ」と結びつけようと思えば、
「本当の愛は、愛とか憎しみとかいう対立を超越しているんだ。つまり、愛は憎しみをも含むんだ」
などと言えばよい。奇をてらうなら、もっとズバリと「愛とは憎しみのことなんだなあ」と言うのも手である。それじゃあ本当の愛って何だ、もっと具体的に説明してくれと詰め寄られても少しも困らない。とっておきの逃げ道がある。
「本当の愛は、もはや言葉では捉えられない。何て言うかなあ、そう、実感するしかないものなんだ」
これは一面の真理ではあるが、ここに逃げ込むくらいなら、最初から「言葉による議論」などやめてしまえばよいのである。
この種の術策を最初に開発したのは、多分大昔の哲学者であろう。「絶対的とか相対的などという区別によって相対化されない、本当の絶対性」というような言い方は、昔からあった。しかし「絶対的な絶対性」というような言葉が、それについては何とでも言える、無意味な言葉であることを見破ったのも、やはり哲学者である。今日、「絶対的」とか「本当の」という言葉を振り回す人は、宗教家・革命家にはいくらでもいるけれども、哲学者や科学者の間にはほとんどいないのではないかと思う。
本質的という言葉も、なかなかの曲者である。
「それはたしかに本質的な点をついている」
「それでは本質的な解決にならない」
「本質的な問題はそんなところにはない」
こういう場面での「本質的な」という言葉は、「俺が言いたい」と同じ意味ではないかと私は疑っている。
こういう掴みどころのない言葉に悩まされたときの、たった一つの対抗策は、何が「本質的」なのか、「本当」とは何なのか、なるべく具体的な言葉に置き換えさせることである。相手がとっておきの逃げ道に逃げ込んだら、そこで議論を終えればよいし、相手が体験あるいは実践を要求してきたら、その要求が(訳の分からない言葉の意味と切り離して、それ自身)価値のあるものか、バカげたことではないかを考えて判断すればよい。曖昧な言葉が理解できないのは、恥どころか誇ってもよいことである。
野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p76~p78
深遠そうな、意味ありげな、曖昧な言葉は世にあふれている。引用内で取り上げられている「本当の」「絶対的」「本質的」といった表現はその代表格であろう。これらの表現は発言者の都合に沿うように濫用されていることが多い。
「本当の愛」と言われたとき、何が「本当の愛」であり、何が「嘘の愛」「虚構の愛」であるのか?とある愛が「本当の愛」とみなされるためにはどのような要件を満たしている必要があるのか?何かが欠落しているから「嘘の愛」「虚構の愛」とみなされるのか?などなどの疑問が即座に浮かんでこないだろうか?
私のような若輩者には、「愛」が何なのか、「本当の愛」が何なのかは分からない。正直、それらについては考えが及ばない。しかし、「~というのが “本当の愛” なんだよ」と言われたところで納得はしない。腑に落ちるわけがない。同じように、「絶対的な」や「本質的な」といった表現が用いられている意見や主張にも納得できない。
発言者が、自らが用いた「本当」「絶対」「本質」という言葉の曖昧性を解消してくれない限り、その発言に同調することも批判することもできない。それどころか、「本当」「絶対」「本質」という曖昧な言葉によって脚色されている意見や主張を見聞きすると、「私を煙に巻こうとしているな」と思って身構えてしまう。引用内には『「本質的な」という言葉は、「俺が言いたい」と同じ意味ではないか』と述べられているが、個人的にはこの箇所に共感している。
当たり前だが、何らかの意見や主張を他者に提示する際には、発言者は言葉の曖昧性を可能な限り解消しておかなければならない。発言者は、自らの意見や主張に含まれる難解な言葉や意味の曖昧な言葉に定義を加えなければならない(それが無理な場合は、せめて自分なりの定義を加える)。
人間は言葉を用いて「何とでも言える」のだ。曖昧な言葉を用いれば用いるほど、より無制約に、より自分勝手に「何とでも言える」のだ。
少なくとも議論の場では、「議論」という体裁を採る場では、論理や具体的な言葉という「ルール」によって自他の好き勝手な横暴を防止しなければならないのだ。「何とでも言える」ことを許してはならないのだ。
議論の場において「本当の」「絶対的な」「本質的な」と言われた場合、あなたは発言者に「 “本当” ってどういう意味ですか?」「 “絶対的” ってどういう意味ですか?」「 “本質的” ってどういう意味ですか?」と問うべきだ。発言者は意味も分からずにそれらの言葉を用いているのだろう。
言葉の意味や定義を問うという質問は、発言者に「意味も定義も分からない言葉をむやみに用いてしまったこと」への反省の機会を与え、発言者の論者としての成熟に資することになるだろう。
また、そのような質問は「曖昧性や不明点をそのまま放置しない議論」「脚色された言葉になびかない議論」「簡単に納得しない議論」「具体性に依拠する議論」を可能にし、未解明・未解決問題に関する最適解や妥協点を粘り強く詳細に模索するという議論の風土を育むだろう。
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