今回のテーマは「歪んだ負けず嫌いな子は敗北を知らない」である。引用から話を始めよう。なお、分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。
言葉尻を捕らえて頭に浮かんだことを言い散らす。これは子供どうしの口喧嘩にもよくある型である。
久「二階建ての自動車なんて、乗ってみたいな」
正「そんなの、あるわけないじゃん」
久「あーるもん」
正「なーいもん」
久「あーるもん」
正「なーいもん」
これでは勝負がつかないな、と思っていると、
久「作ればあるもん」
正「えェ、作るだって、お前んちにそんなお金あんのか」
久「お前んちだって、あんのか」
正「ありますよーだ」
久「ありませんよーだ」
正「ありますよーだ」
久「じゃ作ってみろ、一分間で、作ってみろ」
正「あっかんべーだ」
最初正君は「あるわけない」と言っていたのに、途中から話が逆になってしまったが、本人たちは平気である。世界最強の矛と、世界最強の盾とが火花を散らしているようなもので、どちらも負け知らずである。
野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p8~p9
もう一つ引用しよう。
小児病
これまで度々取り上げてきた、寅さんや子供が振り回す強弁は、相手が言うことを耳に入れず、ひたすら「自分が言いたいことを言い募る」という点に特徴がある。これを、小児型の強弁と呼ぶことにしよう。それしかできない寅さんのような人は、小児病と呼べばよい。軽度の小児病患者は頭脳優秀な青年にもよく見られるので、私の経験でも次のようなことがあった。
ある負けず嫌いの大学生と、東京の私鉄(京王線)の特急電車に乗ったときに、次の停車駅まで何分かかるかが話題になった。途中とばされる駅の数は社内の掲示で分かったので、その大学生(仮にS君とする)は、ひとつの駅あたりおよそ二分半とみて、所要時間を計算した。私は大体の所要時間を知っていたから、そこから逆算して、ひとつの駅あたりでは二分もかからないと主張した。
私は手をかえ品をかえ、「この前乗ったときは……」とか「この線は駅の間隔が短いから……」などと言ってみたのだが、S君の返事はいつも同じだった。
「いやあ、二分以上はかかりますよ」
一言一句変わらないところが、絶対の自信を表していて、腹立たしいやらおかしいやら、まあ優等生というものはこういうものかな、と思っていると、やがて電車は次の停車駅(調布)に着いた。そこで一駅あたりの平均所要時間を計算してみると、果たせるかな、一分五十秒と出た。そこで、私が相手を慰めるつもりで「だいたい二分でしたね」と言ったところ、S君の返事がふるっている。
「いやあ、平均一分五十秒でしたよ」
彼の顔は、常に自信に満ちていた。
ここで、久君と正君の「あーるもん」「なーいもん」論争が連想されるだろう。途中で意見がころころ変わっても、各瞬間では、正君もS君も常に勝利者(少なくとも、負け知らず)であった。正君の方はまだしも、「二階建ての自動車は、今はないが、作ることはできる」と解釈してやれば、(事実には反するが)前後の辻褄は合うけれども、優秀な大学生であるS君は、全くの自己矛盾に陥っている。こんな風に、常に相手を押さえようとするタイプの小児病患者には、それなりの強さがあると同時に、前後の一貫性がおろそかになるため、冷静な観察者にはどうしてもボロを出しやすい一面がある。
野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公新書、2017年) p26~p28
実は「小児病」という言葉には「小児に特有な病気の総称。ジフテリア・はしか・百日ぜきなど」(小児病とは – Weblio辞書)という意味とは別に「考え方や行動が幼稚で、極端に走りやすい性向」(同上)という意味もあるらしい。引用内で用いられている「小児病」の語は勿論、後者の意味を持っている。
他者の言うことに耳を傾けようともせずに、論理に全く則らずに、自分の言いたいことをただひたすらに言い張るという態度はまさしく小児病的、すなわち “子供っぽい” 態度である。そのような態度を改められない者はたくさんいる。子供の久君と正君から優秀な大学生のS君に至るまで、年齢の高低や学力の高低、社会的地位の高低を問わずそのような者はたくさんいる。
彼らは常に勝利者=負け知らずである。いや、彼らは常に自分が勝利者=負け知らずであると “思い込んでいる” 。どれだけ意見を翻そうとも、どれだけ事実を捻じ曲げようとも、どれだけ論が破綻しようとも彼らは負けや自らの非を認めようとはしない。
勿論、何度も述べている通り、我々ギロンバが目指す議論には勝敗などない。それゆえに論破といったものも存在しない。だが、他者の言うことに耳を傾けようともせずに、論理に全く則らずに、自分の言いたいことをただひたすらに言い張る者はそんな我々の目指すような議論を甚だ阻害するのだ。
負けず嫌いな性格が一概に悪いわけではない(スポーツや勉強など負けず嫌いな性格が役に立つ場面はたくさんあるだろう)。しかし、歪んだ負けず嫌いは議論ばかりか議論以外の場においても悪質な存在であるだろう。
ここでは議論という場に話題を限定するが、(意識的か無意識的かを問わず)負けたくないあまりに相手の発言や論理を無視するようになれば、それは「歪んだ負けず嫌い」と言わざるを得ない。はっきり言って、歪んだ負けず嫌いは迷惑だ。迷惑極まりない。
一億歩譲って、議論に勝敗があるにしても、負けたのなら自分の能力や技能に敗因を帰すべきである。『勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし』である。言わずもがな、試合や勝負を歪曲して相手を圧倒したとしてもそれは勝ちではない。というか、試合や勝負を歪曲した時点で反則負けである。敗北を真摯に受け止め、その敗北を次の勝利に繋げるために反省して努力する。これが “正しい負けず嫌い” ではないだろうか。
自信を持つのはよいが、謙虚さと反省を忘れるべきではない。というか、むしろ議論において大切なのは謙虚さと反省の方である。議論に携わる際には「謙虚さ」と「反省」を忘れずに「冷静な観察者」であることを心掛けよう。そして、冷静に相手の話を聴き、論の破綻や矛盾を見抜こう。ボロを見抜いたなら、(相手の論・考えの良い点は認めつつ)相手に対してそのボロについて優しく指摘し、相手の論証の更なる向上に期待しよう。これが我々のとるべき態度・心掛けである。あとは、“歪んだ負けず嫌い” を寄せ付けないような賢明な議論の場を創っていくことが肝要である。
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