悪意のある捉え方は議論に不要/話を逸らすな。話を逸らされるな。【かかし論法/赤ニシン】

詭弁・誤謬
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 今回のテーマは「かかし論法/赤ニシン」である。まずは「かかし論法」について説明しよう。以下は引用である。

かかし論法

 相手の意見を戯画化して表現し、反論しやすくする。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p192)

 この「かかし論法」は「ストローマン論法」とも呼ばれる。引用内で言われている「戯画化」とは、「物事をこっけいに、また風刺的に描き出すこと。おかしく皮肉なとらえ方をすること」(「戯画化(ぎがか)」の意味や使い方 Weblio辞書)である。

 つまり、「かかし論法」とは、「相手の意見を自分の都合の良いように解釈・変形して(それも否定的な形や嘲笑的な形に変形して)、反論しやすくする」という誤謬・詭弁である。ちなみに、辞書的な意味では、「案山子論法(ストローマン)」とは、「議論において、相手の主張を歪めて引用し、その歪められた主張に対して反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の主張そのものを指す」(案山子論法とは – Weblio辞書)だそうだ。この説明はとても分かりやすいので、しっかりと頭に入れておこう。

 言わずもがな、かかし論法のように、他者の意見を変形することは禁止である。他者の論証や意見を聴く際には、ひいては議論に参加する際には、なるべく偏見や固定観念を捨てることを心掛けよう。悪意のある捉え方は議論に不要である。あくまで、他者の論証や意見は額面通りに受け取るようにしよう。相手の言葉の裏に潜む意図を推測したり、行間を読んだりする必要はない。また、意見を述べる際にはなるべく具体的で明瞭で詳細な言葉を用いるようにしよう。

 とにかく、何を言いたいのかというと、相手の意見を単純化したり極端化したりして、自分の都合の良いように曲解し、自分の都合の良いように変形させるなどもってのほかであるということだ。このことについては「議論」のページに掲載している「感情的な言葉の使用と他者の意見の変形は禁止 | ギロンバ-議論場- (gironba.com)」という記事でも述べているので、是非参考にしてください。

 次は「赤ニシン」という誤謬・詭弁について説明する。以下は引用である。

赤ニシン(red herring)

 関係ない、または重要でない問題を持ち出して、議論されている問題から注意をそらすこと。あるいはその関係ない問題のことを言う。持ち出されるのは人々が強い関心を持っている問題であることが多く、そのため論点がそらされたことに気づかない。例えば、車種別の安全性の差異について議論しているときに、どの車種がアメリカで生産されているかを持ち出すこと。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p192)

 「赤ニシン(燻製ニシンの虚偽)」とは、論点ずらしの一種である。英辞郎 on the WEBによると、「赤ニシン」とは、「塩漬けニシンを薫製にして、赤茶色に変色したもの」であり、「(人)の気をそらすもの」を意味する英語圏の慣用表現である(red herringの意味・使い方|英辞郎 on the WEB (alc.co.jp))。その語源についても英辞郎 on the WEBから引用しよう。「猟犬を訓練するときに、獲物が通り過ぎた匂いの残っている道と交差するように、匂いのきつい薫製ニシンを引きずっておいた。そうすることによって、猟犬が正しい匂いと間違った匂いとをかぎわけられるように訓練した。そこから、draw a red herring across someone’s pathという表現が使われるようになった。つまり、『人が進むべき道に、薫製ニシンを引きずっておく』ことにより、『人の注意を他にそらす』のである」(引用元URLは同上)。

 「赤ニシン」は極めて頻繁に見られる誤謬・詭弁である。具体的に言うならば、議論や論証の主題(トピック)・論点・争点とは関係のない問題を持ち出して議論しようとしたり、言い間違いや(議論や論証とは関係のない)言葉の誤用などの些末な問題を糾弾して揚げ足を取ったりすることである。

 特に、引用内にもある通り、「人々が強い関心を持っている問題」に論点が逸らされた場合、論点が逸らされたことに気づけないということも多々ある。例えば、新型コロナワクチンの接種をめぐる行政の対応について議論・論証をしているのにもかかわらず、行政による飲食業への自粛要請の是非についての話題に逸れていく。その場合、「行政による飲食業への自粛要請」という話題にはおそらく多くの人が強い関心を抱いているので、論点が逸れていっている・論点が逸らされているという自覚を持ちにくい。論点が逸れたという自覚がなければ、元の議論には戻れない。論点が逸らされてから時間が経てば経つほど自覚を持つのが難しくなっていき、その分、元の議論に戻るのもより難しくなっていく。

 「赤ニシン」、ひいては論点ずらしは故意というよりかは、無自覚・無意識的な誤謬として為されることが多いと思う。既存のネット掲示板やSNSにおいても、「討論」「議論」と名の付く番組や対談や会合であっても、この誤謬は非常に頻繁に見受けられる。論点を逸らす方は無自覚に自分に都合が良くなるように論点をずらし、論点を逸らされる方は論点を逸らされたことに気づかずに、まんまと逸れた論点・話題に乗っかってしまう。

 正直、既存の議論は「論点をずらしたもん勝ち」的なところがある。そもそも適切な議論に勝敗などないのだが、勝敗や論破などに過度にこだわる既存の議論においては、(勝敗を決めたいはずなのに)ルールすら存在せず、それゆえに、ネット掲示板やSNSにおいては論破したい者たちが自分に都合の良いように勝手気ままに自由に論点をずらして各々の判断で「はい、論破」と勝手に一方的に勝利宣言をしたり、討論番組などにおいては論点ずらしの上手な者が「論破上手の論客」だのと持て囃されたりしている。何度も言うが、「赤ニシン」などの論点ずらしは誤謬であり詭弁である。誤謬や詭弁はどのような意味だったか?誤謬や詭弁は議論における「ルール違反」「反則」である。

 以上のような事態は、勝負重視の誤った議論観、努力せずに楽に他者より上に立ちたいという願望、匿名性や日々のストレスによって増した加虐性などの相乗効果によって保持されているのだと私は考えている。そんな事態の中で「赤ニシン」などの論点ずらしは猛威を振るっている。今や論点ずらしは「最凶の誤謬・詭弁」とみなすことができるだろう。しかし、そうであるからこそ、(根治療法ではないのかもしれないが)粘り強く論点ずらしを見抜いて指摘していくことは現状を打破していく上で大きな効果をあげるだろう。

 では、どのようにして論点ずらしを見抜くのか?それはいたってシンプルだ。議論が勝負ではないということを受け入れて、謙虚であることを心掛け、偏見や固定観念を捨てて、議論の主題(トピック)・論点・争点を常に念頭に置きながら議論・論証し、議論の主題(トピック)・論点・争点を常に念頭に置きながら他の議論参加者の論証・意見を正確に聴く。これだけである。これだけで論点ずらしを見抜ける。そうして見抜いた論点ずらしを、あとは勇気をもって指摘するだけだ。

 そうすることで、そうする人が増えていくことで、退廃しきった既存の議論から決別して、ルールと秩序のある冷静な議論、みんなで特定の問題・事象について理解を深めることのできる議論、みんなの意見の差異を考慮して最適解を妥結できる議論を新たに作ることができるのだ。

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