我々は議論する。故に断定できない。【断定することの重さ】

議論
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 今回のテーマは「断定することの重さ」である。今回も引用から話を始めよう。

一般的に、私たちは「断定」によって「議論」する。つまり、裏付けのない結論―すなわち自身の要望や意見―から始める傾向がある。そして、少なくとも子供のうちはそれでうまくいく。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p16)

 私たちは、自身の要望や意見などの裏付けのない結論から断定によって議論を始める傾向がある。これは鋭い指摘である。まず、根拠と証拠による論証なしには要望や意見は結論足り得ない。ましてや断定など可能であるはずがない。

 しかし、「~だ」「~に違いない」といった表現は世にあふれている。「断定」という行為は安易にするものではない。この世界には断定できない物事の方が圧倒的に多い。断定できる物事というのは実は少ない。断定できる可能性がある物事の例としては「1+1=2」や「のどが渇いたという感覚」などが挙げられる。数を用いる計算や自分自身の主観的な感覚に関しては断定できる可能性がある。

 ただ、あくまで断定できる“可能性がある”というだけだ。100%の可能性で断定できるものなど存在しないという声もあるかもしれない。この辺のことを突き詰めると哲学の話題になるので、今は深くは追わないでおく。

 とにかく、断定という行為は相当難しく、断定するには相当強力な証拠と根拠と論証が必要である。

 現在においても我々は議論する。なぜか?それは、現在までに人類が解決できなかった問題が存在するからだ。我々現代人は現代特有の新しい問題ばかりを抱えているわけではない。古くから議論されている問題はたくさんあるし、現代特有の新たな問題だとみなされるものであっても実は古くからある問題が現代風に形を変えて再び現れているだけだということもある。

 しかし、現代以前の人類がみんな無能であったかというとそうではない。類稀なる頭脳の持ち主は歴史上たくさんいただろう。彼らが何千年もかけて議論を積み重ねてもなお、答えが出ない問題ばかりである。統一見解が得られていない問題の方が多い。

 つまり、類稀なる頭脳の持ち主たちが途方もない年月をかけて思考して議論してもなお「断定」できていない物事はたくさんあるのだ。このことは我々現代人が議論するという事実に端的に表れている。

 にもかかわらず、「断定」という行為に安易に及ぶのは浅慮であると言える。上の引用においては、断定によって議論することに対して「少なくとも子供のうちはそれでうまくいく」とある。私もそのように思う。子供が浅慮であるというわけではないが、少なくとも大人には子供よりも深い思慮を発揮してほしいものである。

 議論をする際には、自他の論について「内容や根拠・証拠は本当に正しいか?」「他の選択肢・可能性はないか?」ということを常に問い続けよう。この実践を通じて、曖昧で不明確な断定を発見する嗅覚を研ぎ澄ましていこう。意識的か無意識的かを問わず、無根拠な断定に依拠して議論が進むことは多々ある。そのような議論を徐々に減らしていこう。

 断定は基本的には避けるべきものであり、何事にも「~かもしれない」という態度・姿勢で臨もう。十分な検討をしないまま選択肢・可能性を除外していくのではなく、あらゆる選択肢・可能性を温存しながら各々を慎重に吟味することが肝要である。

 今回はここまでだ。今回の内容で覚えておいてほしいことは「議論においては早急で安易な断定は禁物であり、あらゆる選択肢・可能性を温存しながら各々を慎重に吟味すべきだ」ということだ。

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