今回のテーマは「礼儀と配慮をもって助け合いの議論を創る」である。引用から話を始めよう。分かりやすくするために引用内の文言に多少の変更を加えている。
ルール49:礼儀正しさを忘れずに
相手を馬鹿にしたり攻撃したりしてはならない。これらは人身攻撃という名前が付いた誤謬であり、してはならないことだ。討論の相手を好きになる必要はないし、相手の意見に賛成する必要もない。相手の話を真面目に聞く気になれないこともあるかもしれない(そうなれば、向こうも好意的ではいられないかもしれないが)。それでも、一定の礼儀(シヴィリティ)を守ることはできる。向こうもそうできるはずだ。ある意味では、そうした機会にこそシヴィリティが重要になる。
相手の論証に集中しよう。相手の見解を公正に評価しよう。感情的な意味合いの強い言葉を避け、ルール5で述べたように論証の中身に気を配ろう(ルール5に関しては、ぶぶ漬けを勧められても帰らずに食べる。【感情的な言葉の使用と他者の意見の変形は禁止】 | ギロンバ-議論場- (gironba.com)という記事を参考していただきたい)。たとえ相手の結論や前提を最終的に拒絶するにしても、相手が検討に値する前提を示していると、こちらが理解していることを明確にしよう。
ミニマリスト的な倫理として考えよう。良くも悪くも、討論の相手はあなたと同じ社会に属し、つまるところ一緒に生きなければならない人間なのであって、とんでもない悪党でも頭のおかしな変人でもない。相手は生身の人間であって、感じの悪い張りぼてではないのだ。私たちは誰も皆、複雑で常に変化している世界を理解しようとしているが、森羅万象全てを理解できる人間はいない。そんな中で、論証をはじめ様々な手段によって事態を少しでも良くしようと努めているのだ。たとえ相手がどんなに喚こうと、どんなに頑なだろうと、どれほど後ろ向きな態度だろうと同じことだ。少なくともその点に免じて、礼節を守った態度を心掛けよう。
そして、勿論、私たちの方も相手側から礼節を守った対応をされたいし、たとえ喚き散らす頑固な人と思われようと、少なくとも礼儀正しく扱われたいのだ。純粋に現実的な見地からして、シヴィリティには影響力がある。こちらが礼儀を心得ていれば、相手にも同じことを求められる。そういう姿勢を示さないよりも示す方が、相手も礼節を弁えた態度で接してくれる確率は確かに高くなる。
意図的に発言を曲解されたり、けなされたと感じたりして、頭に血が上ってしまいそうになるときもあるだろう。そんなとき、いざ自分が発言するとなると、寛大な振る舞いをしようと思えないかもしれない。だが、それはお互い様なのだ。礼節には、人間の良心に訴えかける力がある。
それに、もしかしたら(単に可能性の問題だが)相手の意見は完全に間違いではないのかもしれない。不透明で複雑な世の中では、「全てをまとめる」方法は一つだけではないし、実際に多くの人々が私たちとは異なる方法で全てをまとめている。彼らに学ぶところがあるかもしれないし、少なくともそういう姿勢を示して相手を尊重しよう。この場合のシヴィリティは、誠実な謙虚さである。
あなたは今、相手が礼節を守っているとは感じられないのではなかろうか?相手からの礼節を期待することはできるが、結果は必ずしも保証されない。だが、一歩先に進むのが、礼節を守る討論者の務めなのだ。まずは自分から礼を尽くそう。模範を示すのだ。寛大さを示せば、それがいつの間にか相手にも感染して、姿勢が変化するかもしれない。いずれにしろ、一歩先へ行くことによって、あなたはシヴィリティを向上させ、広い世の中でめぐりめぐってそれが自分の利益になることもあるだろう。
(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p168~p172)
他の議論参加者を好きになろうとする必要も彼らの意見に賛同しようとする必要もない。勿論、仲が良いことに越したことはないが、誰だって仲良くなれない人がいるはずだ。私自身、「この人とは上手くやれないなぁ」と思う人はいる。読者のみなさんもきっとそうだろう。ただし、それは内心に留めておくべきだ。議論の場を含め社会生活においてはその内心を表出せずに誰に対しても礼儀を重んじた態度を示すべきだ。
誰に対しても礼儀を欠いてはならない。嫌いだからといって馬鹿にしてはならない。これは当たり前のことである(ただ、この当たり前を出来ていない人は多い)。日常生活・社会生活上で常に心掛けるべきことである。特に議論においては、礼儀を欠いた発言や他者を馬鹿にするような発言には「人身攻撃」という名が与えられている。無神論者であることは論証を失墜させない。/マッカーシーの誤り【人身攻撃/無知に訴える論証】 | ギロンバ-議論場- (gironba.com)などの以前の記事でも何度か述べているが、「人身攻撃」は代表的な誤謬・詭弁の一つである。
自らの偏見や固定観念を排除して、「相手の見解を公正に評価しよう」。勿論、議論においては感情的な意味合いの強い言葉を用いてはならない。「たとえ相手の結論や前提を最終的に拒絶するにしても、相手が検討に値する前提を示していると、こちらが理解していることを明確にしよう」という文はそのまま頭に入れておいてほしい。結論と前提、どちらか一つだけを見て相手の見解を評価してはならない。結論とそれを支える前提や推論、すなわち論証全体を見て相手の見解を評価しよう。頻繁に見受けられることだが、結論だけを見て相手の見解を貶めることなどもってのほかである。「あなたの考えを理解しようとしている(理解している)」という態度・言動を他者に対して積極的に発信していこう。
これまた何度も述べていることだが、我々は何かをより深く知るために、何か良からぬことを改善・解決するために議論をするのだ。意見が対立するのは仕方のないことである。人々の間で意見が対立するからこそ、人々がそれぞれ異なる意見を持つからこそ議論は存在している。しかし、議論において人と人の対立は不要である。いや、不要どころか有害である。議論は意見を交換し、意見間の調整・妥協に努める場である。議論に携わる際には、他者に対して感情的になるべきではない。
誰に対しても礼儀と配慮をもって接するべきだ。自らが礼儀と配慮を心掛けることで、相手にも同様の礼儀と配慮を心掛けることを期待するのだ。逆に、あなたが不適切な態度をとると、相手もあなたに不適切な態度をとる可能性が高まるだろう。相手の立場に立ったらあなただってそうしたくなるだろう。やり返したくなる気持ちは分かるだろう。このような意味でも、議論をする際には礼儀と配慮を大事にするべきなのだ。相手を馬鹿にしたりけなしたりすると、あなたも馬鹿にされたりけなされたりして嫌な思いをするのだ。進んで模範を示すしかないのだ。相手の改心を促進するように振舞っていくことがより良い世界への一歩である。
また、相手の不適切な態度・発言に同調してもならない。そのような態度をとられてもあなたは冷静でいるべきだ。毅然とした態度を貫くべきだ。そうしないと、罵倒の応酬によって議論そのものが成り立たなくなってしまう。不適切な態度・発言を一向に改めることのない者が浮いてしまうような、居続けることが恥ずかしくなってくるような議論の場を構築・維持していくべきだ。
「もしかしたら(単に可能性の問題だが)相手の意見は完全に間違いではないのかもしれない。不透明で複雑な世の中では、「全てをまとめる」方法は一つだけではないし、実際に多くの人々が私たちとは異なる方法で全てをまとめている。彼らに学ぶところがあるかもしれないし、少なくともそういう姿勢を示して相手を尊重しよう。この場合のシヴィリティは、誠実な謙虚さである」という文もまた覚えておくべきであろう。自分の意見が完全に正しくて相手の意見が完全に誤っているということはないだろう。世界は単純ではなく極めて複雑だ。統一的で絶対的な真理や真実や正解や答えなどは存在が期待できない。自分の意見にも相手の意見にも正しい部分と誤っている部分がある。それでいいじゃないか。しかし、どこが正しいかどこが誤っているかは千差万別である。ならば、お互いでお互いを補い合って助け合うような相補的・互助的な関係を私とあなたとみんなで築きましょう。このような認識・態度を持つべきである。
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