正しいかもしれないし間違っているかもしれない。「かもしれない」思考を持とう。【ありふれた推論「類推」の用法と注意点】

議論
スポンサーリンク

 今回のテーマは「ありふれた推論『類推』の用法と注意点」である。引用から話をはじめていこう。

類推による論証

 ルール7(複数の例を挙げる)には例外がある。類推による論証では、例をいくつも並べて裏付けるのではなく、二つの事柄が多くの点で類似していることを根拠にして、一方がある特定の性質を持つ場合に、もう一方も同じような性質を持つはずだと推論する。

 論証が二つの事例の類似性を強調するとき、それは類推による論証であることがほとんどだ。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p55~p56)

 今回は「類推による論証」について述べる。「複数の例やサンプルで一般化を裏付ける」という記事でルール7(複数の例を挙げる)を引用したが、「類推による論証では、例をいくつも並べて裏付けるのではなく、二つの事柄が多くの点で類似していることを根拠にして、一方がある特定の性質を持つ場合に、もう一方も同じような性質を持つはずだと推論する」。

 ちなみに、辞書を引いてみると「類推」とは「論理学で、二つの事物の間に本質的な類似点があることを根拠にして、一方の事物がある性質をもつ場合に他方の事物もそれと同じ性質をもつであろうと推理すること」(類推とは何? Weblio辞書)だそうだ。

 これは私(日本人)の実体験なのだが、外国でホームステイしていた際に、ホストマザーに「以前、日本人に会ったことあるのよ。彼はとても真面目だった。きっとあなたも真面目なんでしょう?」と言われたことがあった。

 これは類推の一例である。というのもホストマザーは、以前会った「彼」と私の間に「日本人である」という共通点(類似点)を見いだし、その共通点(類似点)を根拠にして、「真面目である」という性質もまた「彼」と私に共通するだろうという推測を行ったのだ。噛み砕いて言うと、「真面目な彼は日本人だった。私は日本人である。彼と私は同じ日本人である。ということは、私は彼と同じく真面目であるだろう」ということだ。このような推測を類推と呼称する(極めて簡易な類推だが)。

 ホストマザーのこの類推は当たっているかもしれないし、間違っているかもしれない(一応、私は真面目であると自負しているが)。類推は日常生活においてかなり頻繁に用いる推測であるだろう。我々人間は、いつでも、どのような場合でも十分な情報を手に入れることができるわけではない。むしろ、情報不足は日常茶飯事であり常態である。そのような状況下に置かれる我々にとって類推は必須技能であると言えよう。

 しかしながら、先述の通り、類推は当たっているかもしれないし、間違っているかもしれない。類推が必ず当たっているとは思わないでいただきたい。一般化などと同様に、やはり類推も「事実よりも分かりやすさ」を追求するための手段である。はっきり言って、類推の正確性には自信を持たない方が良い。基本的に、一般化や類推を用いるときは「間違っているかもしれない」という心構えを堅持しているべきだ。

 ここで、もう一つ引用を付け加える。

ルール12:類推には適切な類似性が必要である

 類推による論証では、最初の前提で、類推として使用する例について主張する。論証は確かな前提から始めなければならない。

 第二の前提は、最初の前提と似ている例を挙げて、結論へと結びつける。この前提を評価するためには、二つの例がどれほど適切に似ているかを考えなければならない。

 二つの前提はあらゆる点で似ている必要はない。類推による論証は、適切な類似性を必要とするのだ。

(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p56~p61)

 ここで重要なのは、「二つの前提はあらゆる点で似ている必要はない。類推による論証は、適切な類似性を必要とする」ということだ。先程のホストマザーの類推が当たっているか間違っているかはともかく、その類推の肝は、彼と私の間にある「日本人である」という共通点(類似点)である。両者とも「日本人である」ことが、両者とも「真面目である」ことの根拠となっているのだ。

 この場合、彼と私の容姿が似ている必要はない。仮に似ていたとしても、それについて言及する必要もない。なぜなら、類推の肝となっているのは容姿ではなく「日本人」という要素なのだから。

 ただ、ホストマザーが行ったような簡易な類推は日常生活ではありふれたものであるが、議論においてはもっと慎重な類推を行うべきである。類推や論証が「確かな前提」に基づいているか。本質的な類似点が他にないか。それが本質的であると言える根拠は何か。そういったことについてもっと慎重に考えるべきである。

 たしかに国民性には一定の傾向性があるのかもしれない。しかし、一定の傾向性があることは必ずしも事実であることを意味しない。いや、事実かそうでないかと問われれば、高確率で事実ではないのだろう。高確率で反例は存在する。とはいえ、ほとんどの場合、我々人間は「事実が何であるか」を知ることはできない。

 では、どうしたらよいのか?「事実である可能性が低い」ということや「事実を完全に表現することはできない」ということを自覚しながら、ある時点・段階で妥協して一般化や類推を用いることしかできないのだ。勿論、すぐに妥協するのではなく、必死に考え抜いた末に「このままだと永遠に考えてしまう。人間の頭でいくら考えてもキリがないや」と妥協するのだ。

 一般化や類推を用いるとき、ひいては議論を行うとき(欲を言えば、日常生活を送っているときも)、人は謙虚であらねばならない。我々人間は世界で起こっていること、いや、身の回りで起こっていることさえ、自分のことさえもよく分かっていない。しかも、我々人間の言葉や表現技法は完全ではない。これらのことを自覚しながら謙虚に学ぶことは議論という場での作法である。

 話は逸れるのだが、謙虚になることや学ぶことは優しくなることでもある。謙虚さと学びは断定、特に「自分が真や善である」という断定を拒み、「かもしれない」思考を常に促進する。より細かく言うと、謙虚さは「自分が間違っている可能性」を人に認識させて自制・自省・自戒を促進する。学びは偏見や先入観を掘り崩して他者理解を促進する。

 ちなみに、みなさんには、学ぶ過程で大量かつ多種多様な言葉・知識を身に着けてほしい。なぜなら、大量かつ多種多様な言葉・知識を体得することで、より上手に他者を思い遣ることができるようになると思うからである。

 終盤で話が逸れてしまったが、伝えたいことを伝えることができた。今回はここまでだ。今回覚えてほしいのは「類推とは、二つの事柄が多くの本質的な点で類似していることを根拠にして、一方がある特定の性質を持つ場合に、もう一方も同じような性質を持つはずだと推論することである。だが、類推は当たっているかもしれないし間違っているかもしれない。なぜなら、類推は、事実よりも分かりやすさを確保するための手段であるからだ」ということだ。

 皆さんがインターネットで怪しいと思った情報があれば、ぜひこちらへ投稿お願いします。

 また、参考文献および関連本はこちら

タイトルとURLをコピーしました