今回のテーマは「演繹的論証とは」である。引用から話を始めよう。
演繹的論証
(きちんと作られた)演繹的論証は、前提が真実であれば結論も真実に違いないというかたちの論証だ。きちんと作られた演繹的論証は、妥当な論証と呼ばれる。
これまで取り上げてきた論証では、それ自体は間違っていない前提をどこまで積み重ねても、結論が真実であることを保証しない(もっともらしく思える場合はあるだろうが)。だが演繹的論証は、そうしたタイプの論証とは異なる。非演繹的な論証では、前提から新たな結論を導き出すのだがーそれこそが例証による論証や権威による論証の要点であるー妥当な演繹的論証の結論は、前提に含まれていることを明白にするだけだ。
言うまでもなく、現実には、私たちは自分が立てる前提に絶対の確信を持っているとは限らないので、現実の演繹的論証の結論は多少(ときには大いに)割り引いて受け取らなければならない。それでも、強力な前提が見つかれば、演繹法は非常に役に立つ。たとえ前提が不明確であっても、演繹法は論証を構成する効果的な方法である。
(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p92~p93)
今回から数回に渡って「演繹的論証」について扱っていこうと思う。演繹的論証とは、「前提が真実であれば結論も真実に違いないというかたちの論証」である。ちなみに「演繹」とは、「一つの事柄から他の事柄へ押しひろめて述べること」「与えられた命題から、論理的形式に頼って推論を重ね、結論を導き出すこと。一般的な理論によって、特殊なものを推論し、説明すること」(演繹(エンエキ(en’eki))とは何? Weblio辞書)である。
前提から新たな結論を導く非演繹的論証においては、「それ自体は間違っていない前提をどこまで積み重ねても、結論が真実であることを保証しない(もっともらしく思える場合はあるだろうが)」。というのも、前提から結論へと至るためには、その間に、その前提が真であることの根拠を例証や権威などによって明確にし、その前提を基に妥当な推論を行うという作業を経なければならないからである。しかし演繹的論証においては、「前提に含まれていることを明白にするだけだ」。
しかし、「現実の演繹的論証の結論は多少(ときには大いに)割り引いて受け取らなければならない」。当然、我々が定める前提が正しいとは限らないし、その前提が正しいという自信を我々が持っているとも限らない。むしろ、我々が定める前提には自信や期待を持たない方が良いかもしれない。そう思えるほどに、我々の前提の設定は覚束ないものである。まずはこのことをしっかりと認識しよう。
そのように認識した上でなら、若干不明確な前提を用いて演繹的論証を行うことも許容できよう。勿論、その際には「多少(ときには大いに)割り引いて受け取らなければならない」が。
また、これは引用では述べられていないが、(若干不明確な前提に則ってでも)演繹的論証を行うことで、自分が定めた前提の真偽や誤っている箇所が早い段階で分かりやすくなる。たとえ前提が誤っていたとしても、その誤りの内容が早い段階で分かれば、論証の再構成もその分だけ早く行うことができる。誤りに気付くのが遅ければ取り返しがつかないのかと言われれば、そういうわけでもないのだが、誤りやミスに早く気づく方がやはり良い。
ちなみに、前提に限らず、自分の論証が誤っていたと気づくことは “大きな収穫” である。そして、“自分で” 自分の誤りに気付くことは “もっと大きな収穫“ である。
ただ、引用内においても述べられている通り、「強力な前提が見つかれば、演繹法は非常に役に立つ」。慎重に吟味した結果、自信を持って「この前提は合っているはずだ!」と言えるような前提を設定できれば、自らの論証に演繹法を用いるべきだろう。演繹的論証を採用することで、非演繹的論証よりも簡潔に説得力を持たせることができる。
今回はここまでだ。今回覚えておいてほしいのは「演繹的論証とは、前提が真実であれば結論も真実に違いないというかたちの論証である。しかし、我々の定める前提は誤っていることが多いので、多少(ときには大いに)割り引いて受け取らなければならない。ただし、もし強力な前提を定められるのなら、自らの論証に演繹法を適用するべきだろう」ということである。
次回からは、演繹的論証のいくつかの形態について説明していく。
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