「振り出しに戻る」マスばかりのすごろく【議論の最初に必ず「定義」しよう】

議論
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 今回のテーマは「議論の最初に必ず『定義』しよう」である。今回は引用することなく、「定義」について述べていく。

 「定義」とは「物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること」「論理学で、概念の内包を明瞭にし、その外延を確定すること。通常、その概念が属する最も近い類と種差を挙げることによってできる」(定義とは – Weblio辞書)だそうだ。

 つまり、定義とは、物事に内包される意味・内容を言葉によって明瞭にし、その物事を他の物事から明確に区別することであると言えそうだ。

 「定義」は議論の最初や発言の最初に行わなければならない。つまり、ギロンバにおいてはトピック作成時や返信時に真っ先に鍵となる用語を定義しなければならない。そうすべき一番の理由は、既存の議論においては往々にして、議論の途中で「用語の定義」問題に話が逸れていくからである。

 例えば、「貧困を解消するにはどうしたらよいか?」というトピックで議論が進んでいるとしよう。一定の所得に満たない世帯に対する教育費無償化によって貧困層への教育を拡充すべきだとか生活保護などの社会保障制度の受益対象を拡大すべきだとか様々な意見が出て、議論参加者が「良い議論になってきたなぁ」と思っていた矢先に、誰かが「あれ?そもそも“貧困”って何だろうか?貧困って年間所得が何万円以下の世帯や個人のことを指し示す概念なのだろうか?貧困の明確な基準って何なのだろうか?」と言い出したら、どうだろうか?

 たしかに、彼が提起した用語の定義問題は重要である。おそらく、議論参加者全員にとってそれは「灯台下暗し」的な盲点だったのだろう。議論参加者はこう思ったはずだ。「議論の最初に用語の定義を明確にしておくべきだった」と。

 定義を予め決めないと、話が一気に最初に戻ってしまい、これまでしてきた議論を一旦脇に置くことになってしまうのだ。しかも、妥結が簡単ではない「用語の定義問題」についての議論が難航し白熱することによって、一旦脇に置かれただけのはずの議論が脇に置かれたまま忘れ去られてしまうということもよくある。これは非常にもったいないことだ。

 また、議論の序盤における定義の不備は議論参加者間の認識の齟齬をも拡大させる。

 先程と同じく、用語の定義を明確にしないままに「貧困を解消するにはどうしたらよいか?」というトピックで議論が進んでいるとしよう。そんな中であなたが「貧困にあえぐ人は概して孤独であるから、国や公共団体は彼らの居場所を提供することを最優先で行うべきだ」という意見を提示した。すると、Aさんが「いや。貧困世帯は親族に頼るべきだ」とあなたの意見に反論した。その後も両者の議論は平行線が続いた。

 このとき、両者の身に、ひいては議論そのものに何が起こっていたのか。ずばり、「貧困」というイメージのすれ違いが生じていたのだ。都会で生まれ育ったあなたは、貧困にあえぐ人たちの中には身寄りのない人が多いというイメージを抱いていた。一方、地方で育ったAさんは、貧困にあえいでいたとしても親戚に頼れるのが普通であると思っていた。「貧困」の定義が不明確なままだったゆえに貧困についての議論内の統一的意味・イメージが形成されておらず、両者の間で「貧困」という語が喚起するイメージが大きく異なっていたために、このようなことが起こったのだ。

 人々の「貧困」に関する意味やイメージを形成する要因は種々雑多である。勿論、人々の間でその意味やイメージの差異を生む要因も種々雑多である。例えば、家族構成や地域交流の密度・頻度には地域差があり、あなたとAさんの人生背景にも当然ながら大きな相違がある。このような差や相違が意見の相違を生み、認識の相違を生む(議論の必要性もここから生まれる)。

 意見の相違がなければ議論する必要すらないので、意見の相違の存在は議論の大前提であるが、認識の相違は議論においては対処されるべきものである。認識の相違が大きければ大きいほど、人々のコミュニケーションがうまくいかない。自分の伝えたいことが相手に正しく伝わらないし、自分も相手の伝えたいことを正しく受け取れない。このような相互誤解は議論という相互理解のためのコミュニケーションを阻害してしまう。

 議論の序盤における定義の不備は、議論参加者間の認識の齟齬をきたしながら進んでしまう議論を生み出し、いずれ「そもそも論」を呼び起こす(呼び起こされずに、認識の齟齬をきたしながら進む議論もあるが。それについては後述する)。

 そもそも論が現れると、議論は振り出しに戻ってしまう。そもそも論の乱発は議論を著しく停滞させる。「振り出しに戻る」というマスがたくさんあるすごろくでは駒を一向に進ませることができないし、ゴールにたどり着くのは至難の業だ。

 加えて、論の根拠としてそもそも論を好んで悪用するような者も多く見受けられる。彼らは、「そもそも」という便利な一言・魔法の一言を唱えることによって一瞬にして議論自体を振り出しに戻し、自分の論拠の薄弱さを誤魔化そうとする。彼らは、明確な定義の下に成り立つ正しい議論のためにそもそも論を提起するのではなく、自分の不完全な論を隠蔽したり、論証を練り上げる手間を省いて「それっぽい」論を作ったりするために「そもそも」と言い出すのだ。

 以上のようなことを防止するためにも「用語の定義問題」は議論の最初に解決するべきなのだ。では、どのように解決するのか。

 トピック作成者は議論を進める上で鍵概念となりそうな用語の意味やイメージを分かりやすい形で明確に定義しておかねばならない。用語とその意味やイメージを箇条書きで示すというのが分かりやすいかもしれない。世間的に統一見解が形成されていない複雑な問題や「もし~なら」という仮定に基づく問題については、トピック作成者が独自に定義することも可能だ。立ち上げようとしている議論の主催者は他ならぬトピック作成者なのだ。彼が「議論の舞台設定」を案出するのは何ら不思議ではない(ただし、どのような立場にも公正公平で、誹謗中傷や偏見のないトピックを立てることは大前提である。その大前提を害さない限りは自由だ)。

 最後に二つほど補足して注意しておく。これらは大事な注意点である。

 一つ目の注意点は、そもそも論が提起されたからといって無批判に無思慮に安直に「議論を振り出しに戻す」という選択をしてはならないということだ。何事でもそうだが、振り出しに戻す決断は慎重に行わねばならない。まずは、提起された「そもそも論」が妥当であるか、今までの自分たちの議論が定義を欠いたまま進んでいないかを吟味しよう。ギロンバは掲示板なので、過去の発言を遡って吟味することができる。

 二つ目の注意点は、用語の定義が不明確なまま進んでいる議論に遭遇したときは、「そもそも論」を提起しようということだ。少なくない紙幅を割いてきて述べてきた内容をここにきて覆すのか?そのように思うかもしれない。しかし、そうではない。私は「そもそも論」が悪いということを述べてきたわけではない。悪いのは、正すべきなのは「そもそも論を生み出さざるを得ない状態にある議論、すなわち用語の定義が不明確なまま進んでいる議論」である。そして、防止すべきなのは「議論を振り出しに戻す魔法として『そもそも論』を悪用するという魂胆が実現してしまうこと」である。その点を十分に理解していただいたら、私の言わんとしていることが分かると思う。「そもそも論」はそれ自体としては、議論を修正・訂正する機能を持っている。定義が不明確な議論においては、為されるべき時にそもそも論が提起されないと、参加者間に認識の齟齬をきたしながら議論が進んでいってしまう。そもそも論の登場が手遅れになればなるほど、振り出しに戻ることによる損失は大きくなってしまう。

 今回はここまでだ。今回覚えておいてほしいことは「定義とは、物事に内包される意味・内容を言葉によって明瞭にし、その物事を他の物事から明確に区別することである。用語の定義が不明確なまま進む議論は、参加者間に認識の齟齬をきたしながら進む誤った議論である。それを防止する最善策は、議論の最初に鍵概念となる用語の定義を明確にすることである。次善策はそもそも論を提起して議論を振り出しに戻すことである。しかし次善策を採ろうというときには、判断ミスや悪意を防止するためにも、これまでの議論を振り返って、本当に定義を欠いたまま議論が進んでいるのかということについて慎重に検討しよう」ということだ。まとめがかなり長くなってしまいました。申し訳ありません。それほど大事なことだということです。

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